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弱者男性論について思うこと(2/2)  トーンポリシング批判とは何だったのか

最初に断っておくと、DavitRiceさんはもともとトーンポリシング批判や感情的な話に対して肯定的でなかったので一貫している。

davitrice.hatenadiary.jp

この記事では中段に「フェミニズム」と「弱者男性論」の違いを述べている。


フェミニズムには一定の意味があるし本来の弱者男性論については意味があるとしつつも、ネットで展開されている「フェミニズムへのカウンターとしての弱者男性論」はただの技巧論に過ぎないのでどこにもたどり着くことはないだろうと喝破している。



一方で「フェミニズム」と「弱者男性論」の双方についてこのように指摘している。

現代の議論の状況は、弱者性や被害者性を「切り札」として使うことを許してしまっているからである。……しかし、先述したように、自分たちの弱者性を強調することは無力感につながり、自分たちの問題に自分たち自身で向き合って解決することから遠ざけてしまうのだ。


最終的には以下の文章を結論として着地している。

既存の「価値観」を否定しながら自身の「弱さ」をテコにして新しい価値観を示そうとしたり、「弱さ」を否定することなく逆転的に前向きな生き方の実践に接続させる、といった発想はたしかに感動的ではある。また、ある程度までならそのような生き方も実現可能であるだろう、とも思う。……しかし、上述の発想には、いかにも思想好きで文学好きな文系人が有り難がりそうな「お話」や「綺麗事」という感じもつきまとう。

人工的に作られる「オルタナティヴでラディカルな価値観」とは結局のところ持続性がなく頼りのないものであると考えている。だから、「弱者の"弱さ"を肯定する」というタイプの主張よりも、「弱者であってもセルフヘルプによって"強さ"を身に付けられる」というタイプの主張の方が有効である

「感動的だな、だが無意味だ」構文が使われててニッコリ。



これかなり豪快なものいいである。

「弱者の特権性」を主張するのは一定の範囲まで有効だが持続性がなく社会的な変化をもたらすことはないという、ネットにおける「弱者商売」そのものをまとめてなで斬りにしている。






もうネットにおける弱者に関する議論はプロレス的な形でエンタメ的に消費されるコンテンツに堕してしまいつつある

実際、もはや「弱者の代弁者」はセコイ連中のエンターテインメント的なパフォーマンス商売と化しており、それに対して白饅頭氏などの「アンチポリコレ」な連中がまたそれに対抗してプロレス的なヒール役として人気を集めるという構図になっている。

おかげで、どちらの言説も半ばエンタメ的に消費されてしまっており、もはやどちらもプロレスのマイクパフォーマンスにしか見えなくなっており。まともな人ほど「ついていけない」と言って去ってしまっているのではないか。

その言語が本来持っていたはずの「名前空間」が完全に汚染されてしまっている。*1キーワード自体が汚染された状態でいくら真剣に議論しても「実際の競走馬」について語ってる人と「ウマ娘の同名キャラ」について語るのと同じくらい不毛な議論にしかならないだろう。

少なくとも私は、すでにどちらの陣営のやってることも社会運動としてはみなしておらず、良くてプロレス、悪く言えばパフォーマンスが下手糞な大道芸人程度の認識である。



行き過ぎた「トーンポリシング批判」=「弱者の叫びならなんでも肯定する雑さ」がすべてを台無しにした

この「弱者に関する議論のプロレス化」の原因の一つに、「トーンポリシング」という単語の濫用があったと思う。

私2年前に「あんまりむやみにこの言葉を使うなよ」と警告したけど無駄でしたね。

www.tyoshiki.com

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とにかく乱暴なものいいでフェミっぽいことを大声で叫び、それに周りの人間がRTしまくる。そういうバカげたお祭りを本気で社会運動だと思い込んでる頭の痛い現象が2018年くらいにありまして。

ポリコレの人たちが、自分の主張内容が批判されたのに「私の口調が悪いから批判されるんだ」と自分の態度に責任転嫁した挙句、自分の主張の無謬性を守るために使われている印象です。

つまり、「良い態度で主張したら、主張の内容の是非を問われる」から、「批判されたら態度のせいにするためにわざと悪い態度をとる」というインセンティブが発生してしまっている。「少数派の主張が、主張内容以外の理由で妨げられるべきでない」というのがトーンポリシング反対の趣旨だったはずなのに、「主張内容の杜撰さをごまかすためにわざと悪い態度をとって無敵モードになるために道具」になってしまっているという逆転現象が起きている。

わざと批判が態度に集中するようにふるって、「ほら、この人たちは私の態度しか批判できない」「主張に対して批判する人間がいないから私は正しい」と主張するわけです。

この「トーンポリシングだ!」という切り札を濫用しすぎた結果、見るに堪えない醜悪な光景をさらしたのがclubhouseの時の勝部さんとゆかいな仲間たちだったりするわけですが

www.tyoshiki.com

もうこの人たちもすっかりプロレス巡業になってしまってて本当に意味がないなと。こういう「トーンポリシング」を盾にして好き勝手にいい加減なことを放言してまわる方々のせいで、ネットにおけるフェミニズム議論は2~3年まるまる停滞してしまったとすら思ってます。

この問題はフェミニズム側もアンチフェミニズム側もどっちも同じです。お祭り騒ぎがしたい人たちには「トーンポリシング」批判は便利なんでしょうけど、いい加減そこから離れた方がいいと思いますよ私は。




私にはわからないけれど、フェミニズムの議論はどこかでちゃんと進んでいるんだろうか?

一方で、こういうお祭り騒ぎから距離を取って着実に議論を進めている人がいると信じたいのだけれど、今回のように「自己肯定感の話」に先祖返りさせたり、弱者男性の議論自体が12年前への先祖返りと聞くとあんまり期待できないのかな……。

anond.hatelabo.jp

何度も言ってますが、私があれこれフェミニズムについて言及してるのはそれなりに期待しているからです。全く期待できないとなったら、男性学者が唱える「男性学」の方を見ようと思います。


フェミニズム大図鑑

フェミニズム大図鑑

*1:はてなにおいて「青二才」という名前領域が意味するものが、とある一人の人間の存在に汚染されてる、みたいなのと同じ現象がより広範な領域で起きてしまっている