「努力できる」「頑張れる」「やってみる」事が当たり前ではないと気付いたのは、某専門学校で初めて統計学を教えた時。黒板に数式書いても、誰も手が動かない。生徒全員がぽかーんとフリーズしたまま授業が終了。もちろん、質問は?と聞いても誰も手をあげない。帰り道、次からどう教えれば良いのか→
— 津野 香奈美 | Kanami Tsuno, PhD, MPH (@KanamiTsuno) 2024年3月11日
はてなの人が好きそうな話題だったのだけれど、元ツイートは読みにくかったので自分で整形+見出しをつけています。それ以外は変えていません。私が信用できない人は、上のツイートからツリーをお読みください。(※なお、私はこの連ツイの本題は奨学金制度の設計の話だと思っています)
以下の連ツイを読む時に「エイブリズム(Ableism)」という言葉を知っておくと参考になります。
www.ide.go.jp
エイブルイズム(ableism)とは非障害者優先主義を意味する。障害学では、障害者が抱えている問題は障害者自身の個人的な機能不全によるものではなく、むしろ、社会環境がそうした機能不全に対応できない非障害者の基準を前提に作られていることが問題であるというスタンスをとる。つまり、障害問題は社会問題なのだという考え方である(したがって、経済発展段階、つまり社会環境の状況が障害にも大きく影響し、それは開発途上国の障害者の問題が開発問題でもあることを示している)
長い間、障害は高等教育機関のアンチテーゼとして構築されてきており、気をそらすべき問題、あるいは浪費のもとであると見なし、つまり解決すべきなのに解決されていない状態が続いていた。高等教育における倫理によれば、学生や教師は能力差を明確にせず、皆完璧なように見せ、知的、精神的、あるいは身体面で脆弱だとほのめかされるようなものはなんであってもそれにスティグマを与えるよう奨励されていたし、そのことは、多様性や技術革新の有用性を重視するような一方で起きていた
というわけで、あらためてここから上の連ツイです。
著者が専門学校で統計学を教えたときの経験
「努力できる」「頑張れる」「やってみる」事が当たり前ではないと気付いたのは、某専門学校で初めて統計学を教えた時。
黒板に数式書いても、誰も手が動かない。生徒全員がぽかーんとフリーズしたまま授業が終了。
もちろん、質問は?と聞いても誰も手をあげない。
帰り道、次からどう教えれば良いのか文字通り頭を抱えた。例えば東大生や医学部生であれば、板書すればとりあえず書き写してくれるし、理解できない点があればすぐ質問してくれる。この専門学校の生徒と何が違うのか…。
それを考えた時、「過去の成功体験」に大きな差があるのではないかという仮説が思い浮かんだ。この専門学校は全員が推薦入学で受験経験なし、一方で東大生や医学部生は「自らの努力によって受験を突破した」という圧倒的な成功体験がある。一度でも努力にして成功した経験があると、「努力したらできる」「やってみればできる」と思えるようになるので、未知の課題にも前向きに取り組めるようになるのではないかと。目の前の専門学校生には、その経験が恐らく足りない。なので未知の課題を前にした時、どうすればわからずにフリーズしてしまうのではないかという仮説を立てた。
まず「マインドセットを変える」働きかけを行い、やればできるという気持ちになってもらった話
そこで全15回の講義目的を「やってみたらできた、という成功体験を積む事」に変更。第2回目以降は「わからないことは恥ずかしくないわからなくても教わった通りにやってみる、とにかく手を動かしてみることが重要」と繰り返し伝え教室内を歩き回っては「できてるじゃん!」「完璧だよ!」「わからないとか言ってたけど、やればできるんだからもう〜」と褒めまくりとにかく自己効力感を育てることを意識した。
するとどうでしょう。
初回講義で一切手が動かなかった生徒達が「とりあえず式を書いて解いてみる」動作ができるように。回を重ねる毎に「どうしよう、解けちゃった…」「ねえ私、これならできる!」と生き生きとした表情に変わった。さらに成功体験を積ませるために「先にできた子は、隣の子に教えてあげよう!」と声かけてやらせてみたら、「どうしよう、教えることもできちゃった…!」という声があちこちから聞こえてくる。教える役やった子には「素晴らしいよ!教える才能あるね〜!」、教わる側の子には「いいね〜できてるじゃん!」と声かけると、皆自信に満ちた表情に変わっていき、最後は論文まで読めるようになったのでした。最終回では、実はこの授業を通して「やってみたらできた」という経験をして貰いたかったこと、これから社会に出たら辛いこと難しいこと色々あると思うけれど、その時はこの授業でやったことを思い出し「やればできるんだ」という自分の可能性を信じて人生を歩んでほしいと伝え終了。
そのままでは努力できない人にはサポートが必要だと感じるようになった経緯
この経験から学んだことは、世の中には自分に自信がなかったり過去の成功体験・ロールモデル不足からそもそも努力するという発想に辿り着けない人、努力したくてもどうして良いかわからない人(頼り方や戦略の練り方がわからない人)、過去の失敗経験から新しい挑戦を怖いと感じる人等がいるという事。自分自身は努力するのが当たり前な環境で育ち、安心安全な環境で大学受験にも臨め、戦略立てて就職先を選ぶことができましたが、それがいかに恵まれた状況であったかを実感したのでした。なので、私は大卒で非正規雇用になってしまった人が努力不足とは思わないし、一概に本人のせいだとも思わない。奨学金も、呼吸するように努力できる強者目線で設計するのではなく、戦略立てて努力出来ない弱者にもっとチャンスが与えられ、その人が人生を挽回出来るような設計にした方が良いのではないかと思う。卒業後に苦労させないためにも、学業・就職支援等、受給者への在学中サポートに力を入れるべきでは。
以上を踏まえて偏差値が低い大学に通っている生徒への奨学金をどうするか。ただお金を貸すだけではダメで、その他のサポートも必要なのではないかという提案
学生時代にバイト先でフリーターの方と一緒に仕事して驚いたのですが、非正規雇用だと正規雇用と比べ生涯賃金にどのくらい差が出るのか知らなかったり、マネーリテラシーが低くて将来への投資ではなく消費に使ってしまったりする人は意外と多い。ただお金を貸すだけでなく、返還するための人生設計やキャリア構築に関するセミナー受講を必須にする等の支援はあっても良いのではないかと思う。本当は高校卒業までに家庭や学校でこのあたりを学べたら良いのですが、恵まれた環境に置かれた人ばかりではないので、大学生時代がそういう機会を提供できる最後の砦になるのではないかと。
日本は雇用の流動生が低いため、新卒でどこに就職するかが、その後のキャリアや収入をある程度決めてしまう。私が制度設計者なら、就活に間に合うように、大学1〜2年生の時に奨学金受給者対象に教育介入を行う。そして、卒後の就職先・収入・奨学金返還状況をアウトカムに効果評価を行うだろうと思う。もちろん理想論であることはわかってるのですが、一度小規模に実験してみる価値はあるのではないかなと思う。偏差値の高い大学に通う学生は恐らく問題なく返せる人たちなので、いわゆる偏差値の低い大学に通っている(つまり大手企業への就職が難しい=高収入が得られにくい)ハイリスク群を対象に。奨学金貰って偏差値の低い大学に行くくらいなら就職してお金を稼げ、という意見も気持ちはわかるのですが、日本の企業の多くは高卒と大卒で明確に給与差をつけているんですよね(昇進についても)。こういう国である限り、大卒資格を求めるのはごく自然ではないかと。なかなかに複雑な問題です…