2011年11月22日に増田に書いてた記事(既に増田からは削除済み)です。現在とは意見が異なっている部分もあります。
◆自分が悩んでいる問題について自分では言えない言葉を言える人がどこかに存在するということ
「そういう言葉」との出会いが私がインターネットに抱いている希望だ。
そう信じてネットの文を読む。ネットに限らず、だけれど。これは私の文章の読み方の話だ。
(かくかく)という記事を書いた後で(しかじか)を読んだ。
理解や共感ができるけどそれ止まりの部分について
普通ではない人間が普通を騙る事で、本来普通であったはずの人達は劣等感と敗北を植え付けられて洞窟の中へと逃げ込んでゆく。何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスにアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。素晴らしい世界を、どうしてアラビア人などという現実世界のくだらなさを持って語ろうとするのだ。無限の永遠世界の衝動を、就職活動などという確かで小さな現実世界の理由付けで説明しようとしてしまうのだ。そうじゃなかったはずだ。そんなんじゃなかったはずだ。僕らが夢見て懸命に生きたインターネットはそんなものじゃなかったはずだ。
ここらへんについては、言葉の技術(この人のほうが私より断然ウマイ)や対象は違うけれど、私が書いてることとかぶってると自分では思ってる。でも、ここいらの部分については、私にとって、同意やら共感することはあっても心が動かされることはなかった。
これは自分がそう思ってるだけの話なのだけれど、「悩み」というのは、あるものごとに絡みつかれ、あるいは取り込まれ、そこから抜け出せない状態を指すのだと思う。そして、文章でもなんでも、表に出すことができることは、どのような形であれ、自分がそこから距離を取ることができたものだけだ。自分は自分の悩みを文章みたいな形で描き切ることは出来ない。
はてブの人のように、そもそのその問題に興味がないから軽く考えて思考停止した状態でなんの感情もこもっていないコメントを書ける人もいる。「三行でまとめろ」みたいなことを言ってる人は、幸せな人だと思う。その幸せに気づかないところに少し嫉妬を感じる。
ふと興味を持って、そこにわずかな感情移入をこめたり、調べてみて情報を追加する人もいる。
一方で、その問題に巻き込まれ、散々傷ついたり悩んだりした上で、なんらかの出口を見つけた人もいる。
とりあえず、私は上のような問題については、たどたどしいながらも言葉にすることができる。ある程度客観視出来る。読者から見て、客観視できてないと思われる所があると感じたなら、まぁそこはまだなんか執着があるんだろうが、それでも大枠としては抜け出せていると思う。
私にとって、文章に書ける問題っていうのは、私の中でもうあきらめが付くか克服されていることである。
もうここいらの問題から私は逃げることはできる。無理に否定しなくても、自分を抑圧しなくても、生きていくことが出来る。
だから、私にとっては、この部分は、まぁいい。
自分が距離をとれる問題について言葉のやり取りだけを繰り返すなら、インターネットはいらない。
はてブで気軽に同意のコメントを書けてしまうような記事には、大した価値はない。だから私ははてブは絶対やらない。はてブをやるようになるのは、インターネットが必要なくなった時だ。
自分では言葉に出来なかったことが言葉になってると感じたとき
私が他人の文章を読む時、私が探しているのは、自分の心のなかにあって、でも気付くことさえできない言葉だ。
生きてはいけるけれど、どうにもこうにも心苦しい。その理由や、自分の位置を、他人の言葉を読むことで確認したいと思ってる。
美しいものを美しいと言う。それが出来ないのが人の悲しみである。素敵なものを素敵と言う。それを口に出せないのが人の苦しみである。好きな人を好きと言えない。それこそが全ての絶望の元なのだ。「美しいね」と言いたいのだ。「素敵だね」と告げたいのだ。僕らがインターネットをするのはザッカーバーグの為ではなく、インターネットの為でもなく、ましてや自分自身の為でもない。愛の為だ。真実の為だ。確かに存在したはずの、小さな真実の為なんだ。
少し泣いた。この部分に何を思ったかは書かないしまだ書けないけれど、こういう言葉との出会いがインターネットに感じる私の希望なんだ。
他の人には、この文章が、ただのルサンチマン、で処理できてしまうものなのだと思う。ただの勘違い野郎と読んで笑って済ます人のほうが多いだろう。それでも構わない。それが正しいと思う。
本来、そういうものなのだ。みんなが同じように理解して納得できるものだけが価値じゃないのだ。今の私はそう思ってる。
昔の私は自分の望んでいることや、自分が正しいと思うことを主張するのが、他人にとってはただの我侭でありルサンチとして一笑に付されるものであることに絶望したりしたこともあった。そうやって、自分が何かを望むこと自体が間違いであったり、自分自身が間違った存在であると思った。そう思って何も望まず、無気力になったこともあった。けど、今は自分と外の世界は別のものだと思っているから気にしない。
自分だけが大切と感じるものがあってもいいし、そういうものを見つけることこそ幸せなのだ。
人は自分だけの、自分のための勘違いをするために生きている。その上で、朋有り、それはインターネットの向こうの遠方から来たる、なんてことがあるかもしれない。自分にとって大切な事を、他にも感じている人がいるかもしれないと、その可能性を信じられるだけでも嬉しいことだ。自分のなかだけの小さな真実でも、それがたとえ勘違いでも、それでも人とつながりうると信じる事が許される。
それが、今の私の希望だ。
……うわぁ。
なんというか、めっちゃ青臭いし恥ずかしいなって思うけど、多分その時の自分はかなり感動したんだろうな。
この当時は今よりずっと躁鬱がひどくて、他の増田記事とか見返してみたら、死にたい死にたいみたいな後ろ向きな気分を吐き出してたり、逆にめっちゃ上から目線で人を馬鹿にするようなことを書いてははてなの人にボコボコに叩かれてた。懐かしい。
true tearsという作品、この当時はまだみてなかったけど、「どういう時に涙を流すか」に対して「心が昂ぶった時」って答えた人いたのを思い出すなど。
誰かが自分のために泣いてくれた、涙をくれたと感じられた時に、その涙を受け取って、自分も涙を流すことができる。そうすることで、前にすすめるようになる、みたいな?