頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

映画「バービー」はバズ狙いの意識高いツイートのようなメッセージをモザイク状に並べた作品なの? → 大部分はそんな感じだけど最後まで見ると話が変わってくるらしい

とても面白かった。
niewmedia.com

大作映画とそれに伴うマーケティングというのは、それが仮に「進歩的」な雰囲気を装っていようとも、つまるところ結局は、巨大資本による「社会派風タグ」の恣意的なセルフラベリング行為に過ぎないのではないか

私はバービーの映画は実際に見に行くつもり。多分それなりに楽しめると思ってる

「バービー人形の歴史」という素材そのものがめちゃくちゃ美味しそうなバックボーンがあるという点が支えとなる。

ポリコレという観点で見るなら、むしろ「アメリカンガール」が古きバービーを駆逐するほうが正しそうに見えるが、、、

ただ、明らかに、映画を見るよりバービー人形の歴史を見て自分で考えたほうが楽しそうな気もしている。

ja.eferrit.com
toreru.jp
toyokeizai.net

アメリカンフットボール的な逞しさ、強靭さ、勇敢さというイメージのつけ合わせとなる金髪のチアリーダーの女性の姿が、バービーの全盛期のイメージです。

バービーに代わるというわけではないのですが、同じくマテル社から1986年に市場に導入されたアメリカンガール(American Girl)というブランドはバービーとは違う方向を目指しています。

バービーの特徴はバービーという女性のルックスだったのですが、アメリカンガールは見かけではなく、お人形が具現している「ペルソナの物語」がその特徴です。

ところが、驚くかもしれませんが、このように多様性をうたうアメリカンガールでも、2022年まで純粋にアジア系の女の子の顔つきをしたお人形はなかったのです。

アジア系の子供たちは、なぜ自分たちは白人をモデルとしたお人形で遊んでいるのだろうか、自分のアイデンティティをモデルにしたお人形はないのかなと思い始めました。
つまり、お人形はあるけれど、「なんかしっくりしないな」「なんか変だな」「どうして?」と思うような「不調和」がある状況が生じたのです。
さらに一歩進んで考えると、マテルのアメリカンガールでアジア系の顔をしたお人形を1986年からつくっていなかったのだけれども、2020年代になって、ついにそうはいかなくなった。
アジア系の家庭の所得が上昇し、アメリカンガールのような高価格帯のお人形を求める主要なお客様になってきた。今までは、あまり大切にせず、むしろないがしろにしてきた層だけれど、今やそうはいかない。

でもあえて「古き良き時代の象徴」であるバービーを選び、そのバービーを喜んでるのは「ノスタルジー」ではないかという指摘

我々日本人が「アメリカ人のノスタルジー」を煽るような作品を楽しめるんじゃろうか……

近年の大作「話題映画」には、こういう記号ゲーム / 自己言及ゲームのような構造が相当程度浸透しており、上で述べたような「考察」や「解釈」の「民主化」に伴い、おそらくこの傾向は今後より一層大規模化していくと予想する。

そうした微細な「文化的知識」に基づいた記号を賭け金としたゲーム的構造というのは、ある種の不可逆的な伝播力を持っているようだ。特定のジョークをはじめ、音楽、美術、プロットなどがそうした構造へと収斂していくのは理解しやすいとして、ぞっとするのは、ときに映画内で取り扱われる外在的な要素=社会的なメッセージすらもが、そうした構造へと絡め取られてしまうことだ
記号的操作それ自体の「脱イデオロギー」的な傾向が、翻って、作品に託されたはずの「思想」すらも記号化し、あらゆる事象をスペクタクル化していく

いつぞや指摘された「応用ポストモダニズム」の罠にまんまとハマってるかもしれない、と。
www.tyoshiki.com


この映画を見て女性へのエンパワーを叫ぶのは、映画「新聞記者」をベースに政府批判をするくらい滑稽な事ってことになるかもしれない、と

私は、この映画から、エンパワーメントのエネルギーにも増して、そうしたジレンマに対するややペシミスティックな視線も感じ取ってしまうのだった(先に述べた自己言及的なブラックジョークの危うい配置はその最もたるものだと感じた)。そして、このジレンマへのいわくいい難い感情

「(様々なスポンサー契約や放映権にまつわる巨大な権益、あるいは政治的な思惑や不正が蠢いているのを知りながら、それはそれとして)『純粋に』スポーツの感動を味わうべくオリンピックを観戦する」ような態度とも通底するものではないのか。ある意味では、それこそが究極の資本主義リアリズムではないか? それでいいのだろうか

ここまでの紹介だったら、この映画見なくても良さそうなんだけれど。



天気の子みたいに、終盤までひたすらクソでも、いっぱつ「やりやがった!」というのがあるのであれば、その映画は見るに値する。

でも、最後の一文を見て、やっぱり見に行ってみようかなと言う気持ちになっている。

私は、記号ゲームの「考察」や「解釈」に執心するよりもむしろ、こういう瞬間を求めて映画を観続けているのだと思う。そしてまた、映画におけるポップミュージックにもまた、そういう瞬間へと身を挺する役割を期待しているのだと思う