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の続き。間が空いてしまって申し訳ないです。
「ハスカラ」運動から改革派ユダヤ教が誕生し、ユダヤ人をヨーロッパ人たちに適応しようとする動きが起きたが
「アンチセミティズム」が激化し、ロシアでは「ポグロム」などの弾圧が起きたほか、ヨーロッパでもドレフュス事件が起きて多くのユダヤ人は絶望した。
今日本でもよく現状を知らずに扇動者に煽られてクルド人排斥運動をやってる人たちいるし、本当に民族問題って根が深いな・・・。
ユダヤ人の民族自決運動が「シオニズム」
というわけで、前回は1897年 スイスのバーゼルにて第一回シオニスト会議が開催されたところまで説明しました。
シオニズムは「正当性」を備えている。
それは、溺れるものが唯一しがみつくことが出来る板にしがみついているという正当性だ。
この板にしがみついている溺れる者は、自然的・客観的・普遍的な正義のあらゆる法則に寄って板の上に自分のスペースを確保することが許される。
そうすることで、他人を少しばかり押しのけざるを得ないとしても。たとえ板の上に座っている他人が、力づく以外の手段を彼に残さないとしても。
だが、彼にも、板に乗っている他人を「海に突き落とす」自然権はない。(アモス・オズの言葉)
1:労働シオニスト (左派。建国前から1978年までは主流)
2:修正主義シオニスト(右派。大イスラエルの実現を目指す。1977年までは万年野党だったが、その後は支配的な地位に)
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3:世俗的シオニスト、超正統派シオニスト(左右両派)
イスラエルで政権を握るには「超正統派の宗教政党」と手を組んで、連合政権を作らなければいけないという考えのもとで力を拡大する。
4:宗教シオニスト(極右。民族主義を入植運動の教義とし、最も影響力が高い)
5:文化シオニスト(少数派。アラブとの共生を唱えるが政治への参画を目指さない)
第一波シオニスト(ヘルツル以前)
・1880年代の初頭の時点で東欧出身の若者を中心にパレスチナへの入植を行う。
・さらに左派寄りのユダヤ人がユダヤ人強制集住地域からパレスチナへ移住。
この頃は農業キブツ運動を中心に、ユダヤ人の組織を作り上げた。
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ただし、この初期の移民の多くは生活が困難すぎて帰国する人が多かった。
残ったガチ勢が、シオニスト運動の基礎を築き上げた。
1929年には「ユダヤ機関」が設立されて、これが「前国家政府」として機能することで、世界中のユダヤ人の移住を促進する。
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パレスチナ人の歴史
シオニストたちはパレスチナを「土地なき民のための、民なき土地」と表現したが当然先住民がいた。
ユダヤ人視点ではこういう地道な積み重ねが入植活動を促進していったのはわかったが……「元々住んでた人」からするとこの活動は侵略活動なんですよね。
このパレスチナ人は、アラブ人としてユダヤ人と切り分けられるものではなく、当然「ユダヤ人」の血を引いている人たちも多くいる。
なぜならこの土地は、多くの民族が入れ替わり立ち替わり統治してたから。
・4世紀~7世紀 東ローマ帝国
・638年 イスタム帝国がパレスチナを征服した
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・692年 エルサレムに岩のドームを建築
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このドームは「モスク」ではない。つまりイスラム教二特化しておらずユダヤ教・キリスト教・イスラム教すべてを排除していない。
・16世紀 オスマン帝国による支配
・1538年 スレイマン一世がエルサレム旧市街に城壁を作り、重要な史跡を保護する
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・オスマン帝国の支配下において、パレスチナの土地は「開発の遅れた無法地帯=見捨てられた土地」であった
・1880年代 ようやくオスマン帝国も近代化の努力を始めて生活が向上するが、生活が向上したパレスチナに住むアラブ人たちはナショナリズムを高めた
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そして、パレスチナ人は、シオニズムに対抗するために、政治的な団体を組織し始めた。
ただ、このシオニストとパレスチナ人だけの対立ならここまで複雑にはなっていない。本当に複雑になったのはイギリス人が登場してから
というわけで、次回はみんなが「ブリカス」として認識している三枚舌外交の部分を読んでいきます。