同調圧力の話です。
「同調圧力」って言葉は便利ですが、何が問題なのかが今ひとつぼやけてしまいがちです。同調することがいかんのか?圧力がいかんのか?ってなりがち。「互助会」ってな言葉はますますよくわかりませんよね。互助がいかんわけないのになぜ批判されるのか?というぼやけた意見になりがち。少なくとも「互助会」として批判された人たちがほぼ例外なくこの反応してるので、問題を考える際にこの表現使うのは、言葉の簡便さの代わりに手続きをめんどくさくしてるだけだと思う。
というわけで、たしか西尾維新の何かの作品*1で「和して同さず」の反対である「和せずして同する」やつは気持ち悪い、というような話があったと思うので、これを今後の表現として推奨したいと思います。
「和する」ことと「同する」ことの違いがよく分かってない人たちって結構多いと思ってて、「意見が同じでない」人とは仲良く出来ないってな態度を取る人もいます。批判を受けると即攻撃されてると思う人もいるようです。 こういうのってメンタルが弱いというよりは考え方が根本的にずれてるんだと思います。
その考え方だと「同する」ことを強制しないと、「共感」的なメッセージ以外のやり取りを禁止するようにしないと付き合っていけないよね。些細な違いがストレスになるよね。メッセージをやりとりせずさっし合うみたいな世界になったら言葉の意味なくなるよね。同意することと、思ったことをそのまんま表にだすための言葉なんてたいした価値もないしね。
そうならないようにするためにも「和する」ことと「同する」ことの違いは考えてみたほうがいいと思う。
ちなみにこの言葉は必ずしも「正解」を説くものではありません。
老子の思想が、融通無碍で自由に流れに従うのに、孔子の方は筋を通して、自分の説を曲げないというやや道徳臭のあることがこの格言のなかにもよく表れています。人間関係をよくすることをすすめながら、自説を曲げてはいけないと戒めているのです。
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo17.htm
これですね。 夏目漱石の草枕をわざわざ持ってくる必要は無いと思いますが、今の世の中は窮屈ですし、ぶっちゃけ「君子」とか「エリート」が尊ばれる時代でもない。つーか、こういうのむしろ嫌う傾向にありますよね。
ネットって「自分たちの自由」は主張するくせに「他人の自由」は許さないっていうわかりやすいダブスタを唱える「本音むきだし」なところがありますからね。
なので、今の日本の社会においてこれを完全に貫けるとは正直思ってません。
それでもネットってモラルゆるゆるすぎるってのは意識しておいたほうがいい。しかもモラルのタガの外れ方が良くない。「他の人がやってたら、自分ではよく考えずに、ゴミみたいな行為を平気でやる」人が多いような気がする。 なので、他の人がやってるから」と深く考えずにやった行為でも問題があれば普通にとっちめられるよ、ってことくらいは考えといた方がいいんじゃね?とか思ってます。*2