頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

特に優れた要素がない発達障害者について

タイトルはわたしのことだ。わたしは普通の人が自然にできることが頑張ってもできないことがある。人と同じことをやろうとしたら何倍も苦労する、人と同じことをやってコツコツ積み上げてきても不注意や不用意な発言で台無しになることもある。こういう経験を繰り返しているせいか、基本的にはわたしは人付き合いが苦手だ。人に迷惑をかけることも、それによって人に嫌われることも、しょっちゅうだが慣れない。いつもビクビクしている。よほどのことがない限り人に踏み込もうとは思えない。

 

 

わたし基準であるが、わたしは人の不寛容にぶつかることが多い。基本的に人の寛容というのはお互い様の精神から発生する。自分基準である。その基準が多くの人は似通っており、これについてはこの辺りまで寛容であるべき、これについてはできて当たり前でできない奴には厳しくするべきという基準が無意識のうちに形成されていってるように思う。逆に言えば、意識しない限りは、自分でもそのくらいのミスはある、という基準までしか働かない。少なくとも、感覚としては自分ができて当然と思ってることができない人間には苛立ちを感じるものだろう。誰だってそうだろーし、わたしだってそうだ。わたしは普通の人が厳し目のところについてすごい寛容(ズボラ)であることがあるが、普通の人が適当でいいと思ってるところが極端に厳しいこともある。ただ、世間一般の水準からずれているのはわたしの方だから、どうしても不寛容にぶつかることが多いのはわたしの方というだけだ。普通の人たちが間違ってるわけじゃない。

 

 

ここから少し脱線。

わたしも小学生の頃はいじめられたことがあっていじめなんて大嫌いだけど、「聲の形」の話見た時はめちゃくちゃ辛いけど、あれ普通の子供達の気持ちもわからないことはないなと感じた。それよりも西宮さんの卑屈な振る舞いが、見てて本当に辛かった。どうしても周りから配慮してもらう以上、特別に提供できるものがない子供時代は受け身にならざるを得ないのだ。自分から積極的にいって失敗するという経験を何度も繰り返したゆえの態度なんだろうと思う。

わたしも、自分は普通の人ができることができないのだから、少しくらい他の人より辛いことがあっても当たり前だしそれをおかしいと思うな、当たり前と思って受け入れろと何度も言われてきたし自分でもそう思い込んできた。こちらがそれでいいと思っているのに、人は平等であるべき、不公平は許されないというからヘイトを溜め込んでしまうのだ。弱者だからちょっと下に扱っていい、その代わりにいじめは絶対に許さない、そういう形であって欲しかった。平等を強調しすぎた結果、いじめる側もいじめられる側も対等に扱わなくてはいけなくなるのがそもそもの間違いだ。最初はどうか知らないが、いじめが起こった時点で片方は弱者である。すでに両者の間は平等ではない。この状況に及んでなお、片方だけを贔屓・保護してはいけないという話はない。だが、少なくとも小学生の時の学校はそういう対応だった。いじめではなく、対等な人間が仲違いしている程度の扱いだった。学校側はその自覚がなかったと思うが、これはいじめという概念そのものの否定である。そんなことをしたら、上下関係をはっきりさせて棲み分けしたい子供がどうなるかわからないのだろうか。実際いまでもいじめが発覚した時に、加害者が、じゃれあっていただけだ的なことを言うのは、明らかに学校のいじめに対する意識づけが間違っていることの証左ではなかろうか。

 

 

 

話が脱線しすぎた。

なんの話ししてたんだったっけ。ええと発達障害者に対して、ある程度人が厳しいのは仕方ないしこちらとしては受け止めたいとは思ってるけどもうちょっとなんとかならんか、という。受け止めたいとはいっても他人の不寛容や、そこから生じる悪意に接するのは辛いし嫌だから、できる部分はツギハギながらも、普通の人と同じように振る舞うようにはする。まあ頑張ったところでそれが得意な人には敵わなくて、ちょっと間が抜けているという扱いをされるわけだけれど、わたし程度なら、なんとかやってはいけるものだ。(あくまでわたしは、である。障害については、語れるのは自分の経験と、専門家が語っていることだけであり、もっと重度の人など他人の障害については語れない)

 

 

 

 

うーんと、また話がわけわからなくなった。

とりあえず、最近ネットで見てると、時々発達障害の扱われ方はモヤモヤすることがある。二極的。どうしようもないダメ人間か、すごい天才か。そんなわけないやんと。少しずれてるだけだよと。そういうこと言いたくはなる。

わたし個人の範囲で考えるなら、発達障害については、そういうものがあると理解はしてほしいけれど、あんまり特別扱いはしないでほしいかなとは、個人的には思う。過度に悲観しなくてもよいし、逆に言え小学生で東大生と数学の話で渡り合える天才みたいなのを期待されても困る。ちょっと人より凸凹が多くて、均した人格が求められるところでは苦労する、という程度だ。多少のハンデなら個人の努力の問題だと思う。というか、個人の努力の問題で収まる程度の話にしてほしい。

 

 

いままで、家族やかなり親しい友人以外に自分が発達障害だと伝えられたことはない。自分では上のように思っていても、基本的に周りの人がそのまま受け止めてくれるという信頼がない。わたしにとっては発達障害そのものより、周りの人間への不信というか、警戒心というか、ちょっとした心の壁ができてしまうことの方が問題だと考えている。こういうことを考えなくて済むのであれば、本当に発達障害なんて少なくともわたしにとっては大したことではないのだけれど。

 

 

 

すみません結局わけわからん話になってしまった。なんというか、最近発達障害であることを職場にCOして、そのうえで居場所見つけてる人とか、発達障害の天才小学生の話とか読んでて心がザワザワしてつらい。他人のことなんか考えても意味がないのに。