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夏目漱石「虞美人草」

FGOで虞美人が出てきたので、なんとなく今まで読んだことなかったなぁと思って
夏目漱石の「虞美人草」を読んでみたけど、吾輩は猫であるとか坊ちゃんとかとはまた違った感じで面白かった。

漢詩をベースにして句読点がやたらと多くて読みにくい色彩豊かな美しい情景描写と「スティコミュティア」(一行ごとにに会話を繰り返す軽快な会話形式)のギャップが楽しい。 会話部分はキャラのメリハリといい会話のテンポといい、ラノベよりも軽いくらい。この会話部分は、ほか作品と同じようにユーモアにあふれてて本当に楽しかった。

tyoshiki.hatenadiary.com
夏目漱石は、作家である漱石そのものが実に面白い人物であり、ある意味この作品はその原液みたいなのが感じられて良いなと感じる。


ちなみに虞美人草が出てくるのはこのあたり。

逆さかに立てたのは二枚折の銀屏である。一面に冴え返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑青を使って、柔婉なる茎を乱るるばかりに描いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁を掌ほどの大きさに描いた。茎を弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞を、絞りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀の中から生はえる。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草である。落款は抱一ほういつである。

夏目漱石に出てくる「虞美人草」はあくまで虞美人草であって項羽とのエピソードは特に出てこない。むしろ、本当の花も出てこない。ただ、ヒロイン?である藤尾が死んだ後に、その遺体に添えられた屏風に描かれていたのが虞美人草であったというだけだ。なぜ、このタイトルにしたのだろう?


詳しくはこのあたりの解説を読んでください。
https://www.youtube.com/watch?v=lIqIv6AYXd0
f:id:tyoshiki:20181205215642j:plain


あと最後の部分の会話だけ引用しておきます。

悲劇はついに来た。来きたるべき悲劇はとうから予想していた。予想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世に跨る業を根柢から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目を揺かせば一目を眇す。手と目とを害のうて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。それのみか時々に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意にほかならぬ。

 悲劇は喜劇より偉大である。
 これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ運命の底に陥いって、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水が逝ゆいて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。

①忽然として生を変じて死となすが故に偉大なのである。
②忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。
③ふざけたるものが急に襟えりを正すから偉大なのである。
④襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。
人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するが故に偉大なのである
⑥道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。
⑦道義の実践はこれを人に望む事切なるにもかかわらず、われのもっとも難しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。
道義の実践は他人にもっとも便宜にして、自己にもっとも不利益である。人々力をここに致すとき、一般の幸福を促して、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である

問題は無数にある。
①粟あわか米か、これは喜劇である。
②工か商か、これも喜劇である。
③あの女かこの女か、これも喜劇である。
④綴織か繻珍か、これも喜劇である。
⑤英語か独乙語ドイツごか、これも喜劇である。

すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。
――生か死か。これが悲劇である。

ここらへんシェイクスピア。 

十年は三千六百日である。
普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。
三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。
いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。
この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。
 
死を忘るるものは贅沢になる。
一浮も生中である。一沈も生中である。
一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣きづかいなしと思う。
贅沢は高こうじて大胆となる。
大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
 

万人はことごとく生死の大問題より出立する。
この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。
ここにおいて万人は生に向って進んだ。
ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。
されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、
日に日に死に背そむいて遠ざかるが故に
大自在に跳梁して毫ごうも生中を脱するの虞おそれなしと自信するが故に、――道義は不必要となる。

このあたり、今のネット時代にこそ読まれるべき文章かもしれないね。

道義に重きを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。
ふざける。
騒ぐ。
欺く。
嘲弄する。
馬鹿にする。
踏む。
蹴る。
――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。
この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に――喜劇の進歩は底止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。



道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。



ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。
始めて生の隣に死が住む事を知る。
妄りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外はずして、死の圜内に入らしむる事を知る。
人もわれももっとも忌いみ嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫の陥穽なる事を知る。
陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄に飛び超こゆべからざるを知る。
縄は新たに張らねばならぬを知る。
第二義以下の活動の無意味なる事を知る。
しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」


二ヵ月後ご甲野さんはこの一節を抄録して倫敦ロンドンの宗近君に送った。
宗近君の返事にはこうあった。


「ここでは喜劇ばかり流行る」

藤尾はこの作品では徹底的に「喜劇」の人であったが、その人が破綻して「悲劇」の人になるという皮肉である。
しかも死んだあと、傲慢な態度が取れない遺体になった途端にひたすらに美しさを褒めちぎられるのである。夏目漱石、お前ってやつは……ってなる。

どこまでもこの藤尾はきわめて単純なように見えてつかみどころのないキャラクターであり、さんざん男どもを振り回した挙句唐突に死んでしまうため、むしろ藤尾の母の方が欲まみれでわかりやすい人であった。