私は過去にこういう記事を書いたことがある。
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「可愛い」ということと「助けが必要である」ということは別なのだ、むしろ逆といっても良い。
社会的支援が必要な人はむしろ可愛くない側の人、可愛そうだとか助けたいとと思えない人の側にある。こういう人たちを助けるかどうかの判断は、直感と反するので理性が求められる。
直感やお気持ちを重視しすぎて共感でのつながりばかりを促進したネットは「キモい」「可愛くない」→「迫害しても良い」に安易に直結しがちだが、このネットの空気は、社会支援の考え方と真っ向から対立する。
また、理性でわかっていても「きちんと体験を持って社会的弱者に接しないとなかなかわからない」ことというのは確実にある。私は30を過ぎるまでこのことが腹落ちしていなかったし今でもよくわかっているとは言えない。
昨日も「30過ぎたADHDのおっさん」のとある行動に強烈な嫌悪感を感じてしまった。自分自身が発達障害者であるのにと関わらず、である。
そのくらい、可愛くない人間やキモい人間に対して人は無邪気に残酷になりがちだ。
「社会的支援」や「公助」の重要性って当事者にならないとわかりにくいし、今のネットは完全に「自己責任」的な話が強くなっているよね
今の多くの人たちは「可愛くない人は迫害されても良い」と本気で思っていて、それを平気で口に出す。しかもそれが割と無邪気に受け入れられやすい。
今のリベラルの主流の方々はこっちよりの考え方になっている人が多くて、「かわいそうランキング」上位のものは救うべきであるという思想を真顔で信じている人が少なくない。逆に「可愛くないもの」は助けなくてもいいどころか攻撃しても良いくらいに思っている。
これによって「上手に助けを求められる人」が助けられ、そうでない人たちはより深刻な状況に陥っていても助けてもらえないどころか、よりによって隠れていないと足蹴にされる。
真顔で「社会的責任」という言葉を無防備に使い、それをはてブ民が賞賛するという地獄
この傾向をわかりやすく可視化してくれたのがこの記事とその反応。
note.com
「共助」や「公助」の裏返しとして、共同体の内部の人たちの責任をという話なら分かるけれどこの話はそうなってない。ただただ気持ち悪い人間はおとなしくしていることが生き延びる道だと唱える人権意識のかけらもない記事なのだが、なぜかはてなブックマーク民がこれを絶賛してて頭くらくらした。
自民党の議員が「義務を果たさずして権利を主張すべきでない」といえばおかしいとわかるのに、子供のことを出されると思考が停止するの、本当に「ラブジョイの法則」そのもので笑えない。
この記事の何がまずいかわからないどころか、それを支持する人がこれだけ多いということにちょっと恐怖を感じた(何がまずいかについては別の場所で書いたのでこちらでは説明しません)
私はこの記事を心底嫌悪しているし、この記事を支持したはてなブックマークの人たちも嫌い。わたしのなかでこの記事は「要は勇気がないんでしょ」に匹敵する最低最悪の唾棄すべきウルトラクソ記事ですし、将来的に四谷三丁目氏のこと自体は好きになる可能性はあっても、この記事自体は一生軽蔑の対象ですし、この記事を賞賛したうえでリベラル的な言動をしている人は、もう完全に信用できない語り手だと思います。
ただ、今のネットはやっぱりそういう考え方の人が多いんだな、ということが可視化されたという意味で上の記事はとても価値があると思う。
とある高校生の慧眼
これに関して、私の人生の半分くらいしか生きてない高校生が、体験からこのことを学び、その世の中の認識のねじれやままならなさに涙を流す文章を書いていた。
この作文、日本国民全員に読んでほしい。正直、私はこの作文を読みながら、泣いてしまった。https://t.co/fF2CPX7TQl#拡散希望 pic.twitter.com/zkb2iXf8CQ
— のぶかた (@nov_kata) September 15, 2020
※最初にこの記事発見したツイートはこちら。わたしが見たときはKoshianXさんしかブクマしてませんでした。
この記事は本当に素晴らしいと思った。想像力とはこういうことだと思うのだ。
家に帰り着いた途端、涙がとめどなく溢れた。それはHの将来を考えたからだ。彼も年をとって、私達と同じように中年になり、高齢者になる。「可愛いH君」じゃなくなる。世間が彼を許容しなくなる。Hが成長した時、まだ「可愛いH君」として扱ってくれる人がどれだけいるだろう。 急に大きい声をだして、意味が分からない行動をとる他人を、一体どれだけの人が尊重し、その家族を「偉いねぇ。」ともてはやしてくれるだろう。
この経験によって、障がい者を蔑ろにする人にモラルが欠如しているとは思わなくなった。H達の現実を正確に想像し、慮ることは家族でさえ難しいのだと、身を以て痛感したからである。私は障がい者の家族になりきれていなかった。彼らと過ごさなかったら、私は一生馬鹿なままで、将来Hを煙たがる「他人」になっていただろう。「可愛さ」から離れていく弟を支え、彼の障がいに対する「障害」を受け止める。その覚悟があって、私はやっとHの家族になるのだと思う。彼らを認め、理解するのは難しいと思う。それでも私は彼らを正しく知ってほしい。それは私がそうだったように、自分の考えと直面して、人間として成長できる機会を、彼らから受け取ることができるからである。
ちなみにこの記事読んで美しいとか言ってる人、気持ちはわかるけれど私たちはそれだけだとダメだと思うゾ。
この文章だと普通に「家族が支えなければいけない」って話になりかねない。(この文章書いた高校生はHの家族なのだろうから)
そうじゃなくて、社会的支援=公助というのは、こういう人たちのために必要なのだって認識を持ってほしい。
そして、こういう人たちを支える公助というのは「生活保護」というギリギリのラインだけ用意すればいいというものではないって話まで理解できないのであれば、
「感動ポルノではいけない」と思って書いた文章を感動ポルノとして消費するはてな民という最も醜い構図になってしまう。そうでないことを祈る。
首相が自らの言葉で「自助・共助」が推進し、「公助」を最後の一線しか用意としないと明言する社会で、社会に適応できなかったり落ちこぼれた人はどうなっていくんだろうね……
菅「まずは、自分でやってみる、そして、地域や家族がお互いに助け合う、その上で、政府が、セーフテーネットでお守りをします」
いやいやいや……そろそろ「移民抜きでラティフンディウム運営」しないといけない状況になっている中で、さらに富裕層優遇みたいなこと言ってる菅さん、世の中見えとらんのとちゃうか……。
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まぁとにかく、今よりもさらに「自己責任」の流れを推し進めるということになるだろう。
これは裏返すと「自己責任」が果たせない人間はぎりぎりのセーフティネット以外では打ち捨てられるということになる。
上で述べたように年を取った発達障碍者など「可愛くない」人間は「福祉」「社会的支援」が必要な立場に陥る可能性が高くなるわけだけれどこの状態で「可愛くない奴」は「自己責任」として切り捨てられていくのだろうか。もっと言うと、最近四谷三丁目とかいう人が「社会的責任」という言葉を用いて「きもい奴」「可愛くない奴」=「迫害されても仕方ない」という論理を肯定しにかかっており、それに対してはてな民がよりによって支持を与えるというこの世の地獄が噴出していた。
もうあれかな……仲間内で犠牲になる人間を選んで列の外側に追い出す椅子取り合戦がもう始まってるんですかね……。そういう世の中で、いろんな障害者なんて真っ先に排除の対象ですわね。
おそらくだけれど、今「反差別」を唄っている人間が、まっさきに手のひらを返して「排除していいもの」を選ぶんだろうな……嫌な……時代になりそうだね……