少女が当時はそう思えなくても、「困ったときに保護してもらえる場所があった」「そういう場所を作りたいと思った大人がこの世にいたこと」は、いずれ心の支えになるので、100%悪とするのもなあと思う(もちろんだからといって批判するなとは全く思わない)
新年早々とても良いものを読めた。自分もあくまで仕事として社会的弱者支援の仕事してた時は本当に感謝どころか嫌な思いをすることの方が圧倒的に多かったけど、全然関係ないのになんだかちょっと自分が慰められるような気持ちになった。
弱者支援って聞こえはよいかもしれないけど、マジで多少の高給くらいでは耐えられないくらい精神的にキツい
「少女の保護も金のため」となるとうーんとなる。
これは支援に関わった人にしか分からないかもしれないけど、正直いくらもらってもやりたくない人はやりたくない仕事だと思う。
私は月300万もらってもやれる自信がない(過去の自分のような子に関わることはできない)
前からこれはずっと同じことを書いてて、YouTubeでも「仁藤夢乃さんの人格はちょっと常軌を逸しているけれど、こういうおめめがグルグルした人じゃないと長い間この取り組みを続けることはできないと思う」ということも語った。Colaboが話題になった後暇空茜シンパさんから微妙なコメントがたくさん届いて面倒だなと思ったからもう消しましたけど。
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なので、正直私は仁藤夢乃さんに対しては畏敬の念すら抱いてる。
「そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです」 https://t.co/7HzA2xNaS7
— さよならを教えて (@sayonara_subete) 2016年7月24日
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「仕組み」の部分と「善意」の部分はわけて考えるべきだけど、インターネットは「善意最高!」な人が多くて問題をややこしくしてる
繰り返しになりますし毎回微妙にぼかして書いてますけど、私は児相のお世話になった子やらネグレクトで放置されてて祖父や祖母・親戚の家に預けられてろくに教育も受けてない子の支援事業に2年だけ関わってました。
極端におとなしいか問題児のどちらかが8割でした。「かわいそうな子」「弱者であるはずの子」が同じ教室で別の子に差別発言を吐いたりいじめ的な行為をやってるのも何度も見てます。小学生レベルでさえこれなのだから、その調子で中学や高校まで育った子がどれほど面倒なのかはなんとなく想像できます。女の子は殺傷能力が低いからまだなんとか相手できるかもしれませんが、中学3年とか高校生までなった子なんて怖くて普通の人には相手できないと思います。
基本的にこういう社会的支援とか介護とかの仕事は善意だとか感謝を求めて人助けをするというのは一番やっちゃダメだと思います。現場の人ならともかく責任者は絶対にNGだと思う。多分そういう人がいちばん最初にソウルジェムが濁ってむしろ虐待者に早変わりする。*1
私は会社の命令でそういう現場の人たちを支援するために仕組みを導入したり、自治体側のサポートをする部分がメインでした。実際にサービスを受ける予定の子の面談やって、支援計画を立てて現場担当の人を雇ったり接し方の指導をしたり。支援活動をやろうとしてる人たちにノウハウがない場合は会社のテンプレを利用して申請書とかプレゼン資料とか作ったり。
基本的にはどっぷり現場に浸かってたわけではないけれど、その代わり支援事業立ち上げ時の一番めんどくさいところで支援対象と接することが多かった。子供たちからは感謝されるどころかほんとにろくでもない対応ばっかりでした。*2
私の場合は善意なんか人並み程度しかないから「仕事だから」「立ち上げ段階でここまでやりますと決めた範囲で」やっており、その範囲で回せることを基準にしていきました。しんどいといえばしんどいんですが「これ以上のことはやらないで良い」というラインが決まっていたので必要以上に消耗することはなかったです。
社会支援の仕組みは何よりも継続性やサービスの安定性が重要です。一度始めたら途中で投げ出すことは許されない。だからこそ私のような善意の乏しく共感性の高い人間でもできるような仕組みとしてと、ベストではないかもしれないけれど必要最低限を維持できる仕組みが必要であり、実際自治体側からの要求を踏まえつつ、人が入れ替わっても続けていけるようなラインを模索していくことが私の仕事でした。(もちろん私一人の仕事じゃないよ)
そうやって個人の感覚ではなくいろんな人がかかわってある程度妥当なラインをすり合わせいき、事例が出来上がってきた後は、あっという間に全国で横展開されることになりました。私がやってた頃でも百数十件の公民連携事業が行われてました。ちゃんと仕組化できれば善意のNPOにだけ頼る必要はなく、むしろ責任をもって成果を納品してくれる民間事業が参入できるんですよ。
そういう観点でいうと「Colaboという社団法人の取り組み」を神聖視・特別視してそれを持ち上げることには弊害があります。仮にColaboが会計に何の問題もなかったとしても、善意によって毎回手弁当で行っていて、寄付がないと成り立たないような形の取り組みをやってるなら、不正云々は抜きにしてそういうのはモデルケースにしてはダメなんです。仮に仁藤さんが完全無欠の聖人であったとして、そういう人に頼らないと成立しない取り組みというのを行政側が標準としてしまうと、長期的には悲惨なことになります。行政が関与するのであれば一般性・普遍性が必要な社会支援の取り組みとしなければいけない。これを「仁藤さんのように人として尖がってる存在がいなかったら成り立たない」「常に炎上して注目を集めて寄付を集めることを正当化しなければ成り立たない」ようなものを標準としてはいけません。特に自治体からお金を支給するという話であればある程度まじめな人が「決まった指導をもとに最低限こういう支援を行い、こういう成果を出せるよう努力をします」というものでないといけません。本当におめめグルグルしてる人しか残らなくなります。言い方は悪いですが「意識の低い人」を基準に考えないと本当に大変なことになりますよ……。
そういう意味で仁藤さん当たりが絡んでると言われてる「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」は本当に大丈夫なのかとても心配になりますね……。予算額がめちゃくちゃでかいわけじゃないのでまぁとりあえずやらせてみるってのでも構いませんけど、なんか問題があったあとちゃんと訂正できるんだろうか。
togetter.com
elaws.e-gov.go.jp
少なくとも私は「この子たちが可愛そうだからできるかぎり親身にならなくてはいけない」みたいなことを考えすぎてたらまともに継続できなかったと思います。教育現場ではまさにこの「規定以上の見えない負担」が多くて教師が消耗してつぶれていっています。Colaboあたりの話題を見ていると、1970年代の学校でやらかした失敗をまた繰り返すのではないかと心配になりますね……。
「滝山七小」では、父兄や教師たちにより独自で自主的な教育方針へと舵を切るクラスがあった。国や教育委員会の押し付けを拒否し、生徒の自主性を重んじ、生徒が主体的にクラスの運営に参加してゆくという、夢のようなひと時が訪れた。それを著者は「滝山コミューン」と呼ぶ。大衆の革命の夢が破れ、多くの学生、知識人が家庭に戻る中、革命家を自称する活動家は山にこもり、そのあまりに私的な理念はその残虐性の牙をより鋭利に磨いていた時代に呼応するかのごとく、団地という集団の中から子供の教育というより私的な関心を高める親や教師たちによって、それは始められた。その自主的運動がやがてイデオロギーをまとい(いや、その発生そのものがイデオロギーを秘めていたのだから、それが顕在化したというべきか)、先の大衆運動の後を追うように瓦解してゆく様を、当の「七小」の生徒として体験した著者が、私的ドキュメンタリータッチで描く回顧録。確かに、輝かしい一面もあったコミューンはやがて人々がより私性(その私性の過度の拡大の産物が教育現場でのいじめ問題だと私は思っている)を強めるにあたり団地の近隣同士のつながりが希薄になるにつれ、崩壊していった
持続可能性のある支援のためには、ルールを無視するようなリーダーはもっとも害悪となりかねない
実際に現場で子供たちと接する人たちはある程度その子たちに親身になってあげられる人でないとつとまらないと思いますが、逆に仁藤さんの立場のように代表的な立場にいる人が支援対象に感情移入しすぎるとろくなことにならんと思いますね。インターネットには「なんとなく善意があればいろんな瑕疵があっても許されるべき」とか思ってる頭足りない人たちがはびこってますが、非常に良くない風潮だと思います。たぶんそういう人はこういう事業って善意さえあれば誰でもできると軽く見てるんじゃないですかね。
実際はめちゃくちゃ難易度が高いし、現場では「善意」が暴走して事故が発生しやすいです。現場で雇った人も感情移入しすぎてルールで絶対ダメって言ってるのに支援対象の子にLINEを教えちゃてそれが判明して対応でリソースが削られるというケースが最初のころは何件もありました。弱者支援の現場こそ「善意」を言い訳に何かを許すというのをむしろ絶対にやってはいけないんですが、「善意最高!」な人って本当にそれがわかんないんだよね。
仁藤夢乃さんを擁護してる人って結局これに尽きるわけでしょ。「こんなに素晴らしい活動をやってる人を攻撃するなんてことをしたら善意が負けてしまう」とか思ってる。時に善意は負けてもいいし負けるべき時もあるんだよ。(自分にとっての)善意を価値観の最上位に置いてるような人は知らず知らずのうちに社会に害をなしてることがあるってことにいい加減気づいてほしい。
考えなしの空想主義左翼とかとにかく善人ぶりたいだけの人が「善いことをやってる人は疑ってはならず自由にさせるべき」みたいに変な応援の仕方してますが現実は真逆ですよ。普通の事業以上に仕組みはかっちり固めるべきだし、ルールをしっかり守るという意識がある人が責任者であるべきだと思います。善意のためならルールをちょっと捻じ曲げたりおろそかにしてもええやろ、って人は事業継続性に重要な疑義を生じせしめる存在なのでむしろ有害かなと。
ルールはルール、善意は善意、勝ち負けとかじゃなくて、ちゃんと区分けした上でしゃべってほしい。
生きるために自分の意思を殺したり平気で人をだませちゃうくらいネジが飛んでる女の子の描写としては「君に愛されて痛かった」がかなり上手に描いてたと思うので続きが読みたい…
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そういえばこの作品の著者さんは、仁藤夢乃さんの「私たちは買われた展」をめちゃくちゃ痛烈に批判してましたね・・・。
あと「平気な顔をして嘘をつく子」というのだとマンガ版「でっち上げ」がかなり面白かったのでおすすめです。
「嘘をついている」という自覚はない 多分自分の中では本当のことになっているから 自分の嘘しか自分を守ってくれない、という子どもは私の周りにはたくさんいた。そもそも嘘をついて生き延びるor黙って死ぬ で前者を選んできたから生きているだけという
これもそうだろうなと思ってて、虐待サバイバーの人はやばいケースの場合、虐待者のいうことを内面化することでなんとか自分を守ってきたようなケースは少なくないだろうと思う。 なので個人的には「ゆたぼん」とかをひろゆきとかが弄ってるのも見てて正直あんまりよい気持ちがしないです。
この現象はいわゆる「複雑性PTSD」と呼ばれるものであり、トラウマインフォームドケアという対応が求められるものです。
ぶっちゃけ善意でどうこうなる話ではなく、専門的な治療が必要なんですね。
増田の人は自力で回復に近づいたみたいですが、支援する側にこれらの知識が広がってほしいなと思います。