頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

自分で自分にご褒美を与えられない人に持続的な「推し」活は難しい

なんか見たくないのにTwitterをやってると地獄みたいなジャニオタのつぶやきがいろいろと視界に入ってくる。

具体的なツイートには言及しないが、見ていると自分はこんなに推しのために活動したということをアピールしたい人がすごく多いと感じる。そのアピールの一貫で「内輪にだけしか通じない」過激な論理や気持ち悪い言動をするようになったのだろうと思う。

こういう人たちは「迷惑なバカ」だとしか思わないのだけれど、実施ジャニオタに限らず「推し」ではこういうバカな状態になってる人は結構見かける。昨日はこれが話題になってたな。

こういうのを見ながら「そもそも推しってなんだろう。どうあるべきなんだろう」ってのをここ数日考えてたんだけれど、自分なりにいったんの結論が出たので書いておきたい。 *1

最近考えてた「自分にとって推しとはなんだろうか?」について、自分なりの結論は出た

①私の推しの定義は「他人の応援を通して自分で自分にご褒美を与える行為」ということに落ち着いた。この定義から逸脱するものは私にとって推しではない。

②そして、この定義だとある種の才能が必要であり、誰にでもできるものではない。向いてる人と向いてない人がいる。なので、向いてない人は推しといって自分をごまかすのを止めて推し活はやめた方がいいと「私は」思う。

以上。これについて説明していく。

推しは、見返りを、求めない

私は前からずっと考えてることとして、「推し」と称して行う行為は自己満足だと思っておくべきだというのがある。

「推し」と称して行う行為そのものに満足できないのであれば、見返りがないと満足できないだとかコスパが気になってしまうのであれば、それはもうその人のことそんなに好きじゃないので今すぐその推しをやめるべきだ。

少なくとも私は先の記事で書いた通りこのスタンスだ。*2

「私はパンを焼いてあげました。だからあなたも私にパンを焼いてください。私は誕生日プレゼントをあげました。だからあなたも私の誕生日にはプレゼントをください。私はこれだけの事をしてあげました。 だからあなたも私に同じだけの事をしてください。私はあなたを愛しています。だからあなたも私を愛してください……?
ふざけんじゃないわよ!自分がどれだけのことをやってあげたからって、相手にそれを求めるなんてただの我が侭もいいところじゃない!好意ってのは誰かのためにしてあげることで、 そこに打算とか見返りとか、面倒なものは持ち込むなやっ!そんなんじゃやることなすこと全部に他の目的があるみたいで、この世の全てが胸糞悪くなるじゃないさっ!私はこんなに頑張りました、だから私を褒めてくださいなんて…ありもしない保証書握って借金取りみたいな惨めな姿これ以上さらすなやっ!!好きって気持ちだけで相手を信じることができないなら、もう終わってるんじゃないの?」

https://www.tyoshiki.com/entry/2023/09/08/102017

推しというのは「能動的な行動」「能動的な出費」であることに意味がある

ええか?お金いうんはな、人を喜ばせて、幸せにした分だけ貰うもんや。せやからお金持ちに『なる』んは、皆をめっちゃ喜ばせたいて思てるやつやねん。でも、お金持ちに『なりたい』やつは、自分を喜ばせる事ばっかり考えとるやつやろ。最初はそういう、自分を喜ばせる欲をエネルギーにして進んでもええ。けどな、世の中の人を喜ばせたいっちゅう気持ちを素直に大きくしていくことが大事やねん

夢を叶えるゾウで言われるところの収入の1割を寄付しなさいで語られている話ですが、寄付する事や割合は重要ではないです。「必要なものだけにお金を使う」「仕事だから仕方なく作業をする」という受け身の意識から脱することに意味があるのだと思っています。

誰かが喜ぶことにお金とかエネルギーを使うということが大事になります。
自覚的に他人を意識して行動する。そのように意識の持ちようや行動を変えることに意味があります。


で、これ言うと自分のクビをシメるのであまり言いたくないんですけど、「ジャニオタのファンクラブに入って月会費を払ってます」「インターネットでグッズを買ってます」だけだとあんまり意味がない。「◯◯さんのYouTubeのメンバーシップに入ってます」だけだとあまり意味がないです。

そういう人は「推してるつもり」になってるだけです。実際にやってるのはただCMに踊らされてあまり頭を使わずに消費活動をやってるだけです。「運営にとっての金づる」でしかないし、自分自身も「金と引き換えにグッズを手に入れている」ので、そこで関係が完結してしまってます。 寄付や推しになってません。たいした満足も得られません。

たいした満足も得られないから「貢いだ額」だとか「購入したグッズ」を並べて同じファンの間で序列を競うようなことをやろうとするわけです。ここまで来ると、ただの奴隷です。貢ぐくんだし貢ぐちゃんです。別に本人がそれで幸せなら好きにすればいいと思いますけど、私はこういうのは歪だと思うから、自分ではやりたいと思いません。


「貢ぐだけで幸せ」とか言ってる人も
「貢いだぶんの見返りがほしい」とか言ってる人も
自分とは感性が違いすぎます。
そういうのが推しだと思ってる人とは特に話をしたいと思いません。


<誤解がないように言っておくと>

私はお金が大好きです。欲しい物リストのプレゼントとかスパチャとかnoteでのサポートはもちろん大歓迎です。私はお金が大好きなので、CODOCでの記事お買い上げやサブスク登録大歓迎なのです。(大事なことなので2回言いました)でも、お金でなくても、「ちゃんと記事を読んで」くれたことが伝わるような感想をもらったり、手書きのファンレターもらうでもめちゃくちゃ嬉しい気持ちになりますよってことですね。
www.tyoshiki.com
www.tyoshiki.com

どうせ推し活やるなら、推しをきっかけにしてなにか能動的に活動したり勉強したい

「推し」の原則は「与えてもらおうとするな」です。

じゃあひたすら無私になれ、利益を得るな、奉仕するだけで幸せを感じろという話かというと全然違います。 その受け取り方は「非営利法人」が利益を得てはいけないと勘違いしてるのと同じです。

www.koueki-houjin.net

「非営利」の本来的な意味は、「事業から得た利益を、一般社団法人やNPO法人の社員に分配ををしてはいけない」となります。利益が出て余ったお金は、すべて法人の活動資金にあてられます。余った利益は翌事業年度に繰り越して活動資金に充てるか、あるいは、内部留保しておけばよいのです。

そうではなくて、推し活を通じて自分で勉強したり活動したりして、その活動自体から満足を得たり利益を得たりすればいいんです。要するに自分の成長とか幸せ増大につながることをやればいいんです。自分のためになる行為に、推しのためにやるというフレーバーがつくだけでその活動が楽しくなってくる。そうやって自分の生活を充実させていけばいいんです。

とにかくお互いが自立していることが大事です。推し活は推しの奴隷になることではないし、推しを奴隷にすることでもない。私はそういうふうに考えてます。


ということを考えた時に
わたしは今まで推しとは縁がないと思ってたけど、推し活やってるじゃんということに気づきました。

自分がどのように推し活を行っているかという話

*1:なお、以下の話は「私にとっての」推しとはこういうものだという話なので、意見が違ってもいちいち反論しなくていいです。

*2:私は小学校卒業レベルの算数ができるので、そもそも見返りを求めるなら青◯才さんのようなコスパの悪い生き物はニ秒で見捨ててます。

この続きはcodocで購入