中学時代、デブ女に酷い悪口を遊び感覚で言っていた。娘に胸を張れる父親になるべく、謝罪したい - 子育てちゃんねる
一般的な正解はわかりませんが、私の今の感覚をメモしておきます。
この議論においては、語る人ごとに「前提としていること」が異なります。
この議論は、9割が感情問題なので、前提が違う人と、前提の違いを共有せずに結論だけぶつけあっても全く無意味です。
なので私は「いじめについてどういう前提で考えているか」を語ります。
繰り返しますが、感情問題なので、そこは違うと思う人がいてももちろん構いません。
意見が違っても結構なので、「お前は間違ってる」じゃなくて「私とはここが違うな」という視点で読んでくださるとありがたいです。
いじめに関する「私の前提」
前提①一般論としていじめを見た時に
私は自分をはなれて一般論として考えれば、「いじめ」について、特に幼少時や厳しい環境においてはほぼ不可避的に起こるものだと思っている。
マグダラで眠れ 5巻 生贄の構造 - この夜が明けるまであと百万の祈り
ただ、その対象が自分になったことという事実は、その一般論がわかっていても悲しく、受け入れがたい。
前提②いじめられたことへの感情について
一度でもいじめられると、自分に自信がなくなり、またいじめられるのではないかと怯え、態度が卑屈になってしまう。気持ちとしてはいじめる人を憎む気持ちやいじめられたことへの怒りもあるが、それ以上に自己否定や他者不信の気持ちが強い。
「いつもいつも、自分だけが被害者だと思うなよ。人を傷つける権利があると思うな」 - この夜が明けるまであと百万の祈り
わかっている。ここにいる限り解放されることはない。いつまでも傷口は開き、裏切りは重く、幸福はただあさましく。
そして私は全てを許せないまま。許せないことをたった一つの証明として---
「凡庸な悪」あるいは「透明な存在」について - この夜が明けるまであと百万の祈り
前提③時がたてば忘れるという意見について
「いじめられたことの屈辱や怒りを時間が解決してくれることはない」と自分は思っている。いじめの記憶はウイルスのようなもので、物事がうまくいかない時や、心が弱った時に何度も自分の心を蝕んでしまう。自分で行動して、変化して、その問題に負けないくらい自分が強くなれた時に、あるいは自分を支えてくれる人が出てきた時に、相対的に比重が薄くなり、耐えられるようにならなければならないと考えている。
時間が解決してくれるという人もいたわ。いつか癒やされる日が来るって。ウソよ。何年経っても、今、この瞬間に起きたことのようにあの時の感情が胸の内で泡立つの。早く忘れたいのに忘れられない。
前提④許したいのか許したくないのかについて
「できることなら忘れて楽になりたい」「許せるものなら許したい」いじめた人のためではなく、自分自身が楽になるために、許すことができたら、その怒りを手放すことができたらと自分は思っている。でもそれができるためには、⑦の段階を経る必要があると思う。
⑤「いじめた人の謝罪」「いじめた人への制裁」は意味があるのかについて
いじめた人がいくら謝っても、いじめた人をどれだけ惨めに這いつくばらせても、自分の心が晴れたりはしない。なぜなら、いじめられたという事実やその時の苦しみはなくならないし、②で述べたように「怒り」や「憎しみ」を捨てればそれで終わりではなく、むしろ「自己否定や他者不信」こそが問題だからだ。そこで「憎しみ」だけを捨てると自分を支えるのが難しくなる。
あえていえば「いじめた人が制裁を受けること」は、安心感にはつながるかもしれない。「悪がきちんと裁かれるこの世はまだ正常に動いている」と一時的に錯覚できるかもしれない。だから、いじめをした人を見つけたらみんな過剰に制裁をしたがるのだと思う。
⑥「いじめた人間は、いじめられた人間に対して何ができるのか」について
「いじめた人間の謝罪」は自分をそれほど癒してくれるわけではないため、「いじめた人間」が⑤段階より前の私に直接できる事はあまりない。それでも「いじめた人がそのことを忘れて幸せに生きる」ことを受け入れることが難しい。自分の場合、視界に入ってくるだけでも胸が苦しくなり許せない自分に対して自己嫌悪に陥る。だから、この段階では、できるだけ視界の中に入ってくるこないで欲しい。
ただ、これについては「聲の形」という作品が自分の中で消化しきれていないので、今後結論が変わる可能性はある。
「謝るなら、いつでもおいで」という本があり、本当はこうやって受け入れることができれば良いのかもしれない。
⑦「いじめられた人間」は結局どうなれば満足なのかについて
「いじめられた人間」の救いは、「いじめられた自分が自分の価値を肯定できるようになること」および「自分をいじめるような世界や社会を信頼できるようになること」にあると私は考えている。上でも書いたけど「心のウイルス」に負けないようになりたい。
その為に必要なのは自分を受け入れてくれる友人であったり、安心できる環境であると思う。
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/12/21/133937
「癒える」とは、実は今までヤミに閉ざされていた広大な世界が開け、それに向かい合う新しい自分の非力さに愕然とすることだと言っていい。出発点であって、到達点ではないのだ。
癒して欲しいわけじゃなくて、自分で癒える力が欲しい。
行き止まりからそこではない何処かへ行きたかったんだ。絶望した心では思いつくこともできない明るい道を示してくれた。そんなところに救われたんじゃないか! (「マギ」21巻)
前提⑧「いじめられた人間」が「いじめた人間」を許すべきかどうかについて
いじめていた時の人間からまったく別の人間になってください、としか言い様がない。
反省してくれる事自体はとても良いことだと思う。開き直るよりずっといい。個人的な感情としては「反省しても許さない」といいたい気持ちもないわけじゃない。だけど、そうしちゃうと「開き直って自己正当化し成長しない人」ばかりになってしまう。
①でも書いたけど「いじめ」が不可避の環境ってあると私は思っている。そこで、たまたまいじめられたのが私というだけで、状況が変われば貴方がいじめれていたことも十分ありえたと思ってる。環境の負荷にたいしてみんなあまりに未熟すぎたことが原因だ。だから、貴方が成長して、人をいじめるのは良くないとわかってくれるというのは望ましいことだ。「なぜ私の時に気づいて止めてくなったんだ」なんて今更蒸し返しても意味が無い。幼稚だったから仕方ないっていうしかない。
いじめが減らないのはいじめが赦されないから - ←ズイショ→
補足:いじめを「許す」ということの意味について
許すという言葉の意味についても補足。
許すってのはチャラにするってことじゃない。
許したいから許すわけじゃない。本当なら絶対に許したくない。
許さなくても他にもっといい方法があるなら絶対に許さない。
でも、許す以上に良い方法がないから、仕方なく手段として許す。
手段としての許すってどういうことか。
「ヒラリー・スワンク in レッドダスト」 - この夜が明けるまであと百万の祈り
いじめられた側は心にはわだかまりあるけど、それは表には出さずこちらで抱えることにする。
その分、いじめた側は言葉ではなく「ちゃんと行動で」謝意を示すことを求める。
お互いに、過去の問題について「負担を折半して協力して問題解決にあたろう」ということ。
そうしないとお互いが共倒れになっちゃうからそうする。
だから「許す」ってのは「契約」みたいなもんだ。
許して終わり、清算終了じゃない。そこ勘違いしてる人は許せない。
そうじゃなくて、いじめた側も、いじめられた側も、両方が債務を背負って返していく関係になる。
もし謝罪して、そして許して欲しいというなら
いじめた側は債務を背負う必要があるし、相手に負担をかけるということも理解して覚悟すべきだ。
それを背負うつもりもないなら、いじめられた側だって許すことすらできない。
いじめられた人間が自分をいじめた人間に望むこと
だから「いじめた人がいじめられた人に謝って、償いが終わり」とは絶対にならない。「いじめた人間が、いじめられた人間」にしでかしたことは、もう取り返しがつかない。なかったコトになどならない。
それでももし償いたいと本気で思っているのなら、謝罪なんて要らないから、他の人がいじめられていたらそれを止めて、救ってあげて欲しい。最低「いじめはよくない」って自分の家族や周りの人に伝えてほしいです。
罪を憎んで人を憎まずとういう言葉があるけどほんとそれで、自己嫌悪になったり、自分自身をさばかなくていい。ただ自分がかつてやった「いじめ」という行為はちゃんと否定してほしい。それで「自分はもういじめなんてしない」ってなってくれたなら、もうあなたは私をいじめていた時と同じあなたではない。
参考
「#許しがテーマの作品」募集します - この夜が明けるまであと百万の祈り
「放課後カルテ」1巻 - この夜が明けるまであと百万の祈り
6月24日追記
http://www.minako-amamiya.xyz/entry/bullying
いじめ加害者のことなんか知らないし感謝もしてない、私は幸せになるよ - 雨宮美奈子、美徳はよろめかない
とても良い記事を読みました。この話が当たり前に受け止められる世の中になって欲しいなあと思います。