友人のゲイは彼氏と楽しく暮らしてるし、バイの友人も普通に生活してる。もちろん彼らには僕らにはわからないような悩みもたくさんあるだろうけど、少なくとも「俺達は差別されてる」なんてセリフ聞いたことない。
— 琳 (@schwartzkatze) 2018年8月1日
「LGBTは差別されていて欲しい」と思ってるの、お前らなんじゃねーのかって思う。
あーー。こういうやつなぁ。これ詭弁だとわかってていってるならいいんだけど、本気で言ってる人たまに居るから本当にたちがわるいよね。
とはいえこの話はあんまり語りたくない部分であり、全然気分が乗らなかったのでぐちゃぐちゃな文章です。
「マイフレンドジョン」テクニックと「I have black friends」テクニックについて
しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとってそれも同じではないでしょうか。
「同性愛は個人的趣味」と支援を疑問視 小林ゆみ・杉並区議の発言に批判
以上、性的マイノリティに関して幾つか質問させていただきましたが、それはトランスジェンダーである私の親友がここ最近のLGBTに関する運動の盛り上がりに不信感を抱いており、「自分はカムアウトはしたくないし、そもそも世間にここまで大きく、性について取り合げて欲しくない」という彼女の言葉を聞いたことがきっかけでした。多様な思想や個性を持つ私たちが共生していくにあたり、身近に性的マイノリティの方々がいるということを認識することは重要です。その上で、マジョリティ側がマイノリティの気持ちを理解し、その気持ちに寄り添うことで、様々な状況が改善するはずです。ただ、そこで注意すべきこととして、マイノリティを助ける側の人々が、人助けをしようという気持ちが過剰に膨らみ、上から目線となり、マイノリティの方々に差別的な目線を送っている可能性があります。また、その逆のパターンで、マジョリティの力よりもマイノリティの力が大きくなり、マジョリティ側を迫害する構図が生まれることも考えられます。
たいへん興味深い。
杉田さんの文章も小林さんの文章も同じような理路を経て同じようなところにハマっていることが。
つまり、特定の人にこの「ハマり」が発生するルートがあるということですね。
どちらの文章も、この思考にハマっていない人からするとトンデモな話ではあるでしょう。しかし、いうほど一言でズバッと切り捨てて終わりにできるほど簡単な文章ではないと思います。ふたりとも、本気でこれが正しい、これが良いことだと思っている。つまり「自己洗脳状態」に近いので丁寧に批判していかないとちょっと否定したくらいではびくともしないでしょう。「脱洗脳」(デプログラミング)のプロセスは本当に地道なものであり、洗脳をプロセスの際に行われたことを一つ一つ剥がしていく作業が必要になります。
ここまで強固に思考が固まっている人は、多分そこまでやらないと絶対変わらないでしょう。だから彼女たちを批判するのは、私では力不足なのでやりません。
「自分はカムアウトはしたくないし、そもそも世間にここまで大きく、性について取り合げて欲しくない」は事実だと思うけれど、それを「最近のLGBTに関する運動の盛り上がりに不信感を抱いており」という部分が怪しいんですね。この前書いた「マイフレンドジョン」テクニックとこの「I have black friends」の悪魔合体はかなり危険だと思うのでちょっと注意したいかなと思います。
togetter.com
自分の差別を正当化したい人が使う典型的な論法「I have black friends」とは? | BUZZAP!(バザップ!)
とりあえず、皆さんは、こういう話法はご存知だと思いますけど、こういうのはやはり問題があるよね、ということを確認してくだされば結構です。
・・・ということであとは思いつきの垂れ流しです。
マイノリティが言う「カムアウトをしたくない」「放っておいて欲しい」は問題を感じていないのではなく、マジョリティを怖くて信頼できないだけかもしれませんよ
ついでなので、もうちょっと詳しく説明します。
私の親友がここ最近のLGBTに関する運動の盛り上がりに不信感を抱いており、「自分はカムアウトはしたくないし、そもそも世間にここまで大きく、性について取り合げて欲しくない」という彼女の言葉を聞いたことがきっかけでした。
これについてですが、まず友達の「自分はカムアウトはしたくないし、そもそも世間にここまで大きく、性について取り合げて欲しくない」という発言が100%真だと仮定しましょう。
もしそうだとしても、友人の発言の真意が「差別されていると考えてない」とか「つらいと思っていない」ということではない可能性もあることを指摘しておきたいです。
私も発達障害を「カムアウトしたくない」し「世間でそんなに騒いでほしくない」けど、実際はいろいろと困っている。
逆に言えば困っているけど「カムアウトしたくない」し「世間でそんなに騒いでほしくない」。サンプル数1なので、別にこれが当たり前というつもりはありません。しかしこういう人もいるということだけ知ってもらえればありがたいです。
私は発達障害であり、LGBTとは違いますが、やはりマイノリティとしての自意識や社会不安が強くあります。しかし、実は私もこのお友達と似たようなことを考えており「カムアウトはしたくない」「世間でそんなに騒いでほしくない」という考えを持っています。
私は、現状においてはASDであるからと言ってそれに甘えることも、周りが手加減してくれることも期待しすぎない方がいいと思ってる。私のレベルであればカムアウトしてもデメリットのほうが大きいと感じている。だから、自分でなんとかしたいと思っている。
わたし個人の範囲で考えるなら、発達障害については、そういうものがあると理解はしてほしいけれど、あんまり特別扱いはしないでほしいかなとは、個人的には思う。
こんな感じです。
ただ、それは問題がないということでは断じてありません。
「自分の今の状況がつらい」ということを表明するのは、ものすごい体力や精神力が要るんです。それが正義ではないというのはじゅうじゅうわかっていても、正しさを追い求める体力も自尊心もないし。なによりも、今のマジョリティも、反差別の活動をしている人たちも信じることが出来ない。
「自分の苦しみを打ち明けて、それをわかってもらえるのは当たり前」なんて気持ちはサラサラありません。さんざん子供の頃に、自分の障害で他人に迷惑をかけ、嫌われ、拒否され、親からも「お前の言うことはおかしい」と言われ続けてきました。自分自身ですら、自分のことが正しいかどうかに自信が持てない。 また、私は、自分が発達障害者でありながら、同じような苦しみを抱えているはずのほかの発達障害の人のことが嫌いだったこともあります。同じ境遇の人どうしても理解したり共感したり出来ないことを身をもって知っている。
だから「カムアウトしたり」「世間の人が騒いだところで」世の中が自分にとって良い方向に進むという信頼がない。これ以上悪い方向に進むかもしれないくらいなら、「ちょっとくらいの差別的な扱いで受け入れてくれるならその方が楽だ」と、妥協してしまうんですよね。
いままで、家族やかなり親しい友人以外に自分が発達障害だと伝えられたことはない。自分では上のように思っていても、基本的に周りの人がそのまま受け止めてくれるという信頼がない。わたしにとっては発達障害そのものより、周りの人間への不信というか、警戒心というか、ちょっとした心の壁ができてしまうことの方が問題だと考えている。こういうことを考えなくて済むのであれば、本当に発達障害なんて少なくともわたしにとっては大したことではないのだけれど。
http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2017/02/18/125812
怖がって戦わないくせに、差別されたら傷ついてしまう。他人から嫌がらせを受けるとスルーできず、過剰に反応し、何日も気分が滅入る。たとえ発達障害に対する差別や偏見が禁止されたとしても、生の自分は普通の人間より卑屈でつまらない人間なのだから意味がない。とかそういうことをウジウジ思っている。
完全に自意識過剰ですし、最近ようやくこういうことがあんまり気にならなくなってますが、それでも他人にカムアウトしたり助けを求めたりするというのは今でも苦手です。
私自身がそういう人間なので、こと自分事でもある発達障害に関して言えば、「差別や偏見や無知と戦おう!」とか「差別されてる人間は怒らなければならない!」みたいに元気な人を見ると、頑張って欲しいとは思う一方で、ごめん私そんなん言う資格ないし、そうやって怒るの強制されるのはそれはそれでしんどい、とか思ってしまったりします。本当にごめん。
「差別や偏見と戦っている人がいるから」、全体が厄介者と思われてそっとしてもらえているという側面があることをわかっていながらとても卑怯なのはわかってますが、本当に理想を言うなら、何もしないから周りも構わないで欲しいっていう気持ちはあります。
私は「差別」や「差別主義」はいけないとは思うけど、ある人がひとつかふたつ差別的な考えや発言をしてしまったからといって、それだけでその人を否定しようとは思いません
自分自身が差別に対して積極的に戦えていない「妥協してる人間」なので、差別的なことを考えたり言ってしまったりする人にもそこまで厳しくは言う気になりません。
つまり、わたしは差別意識があるからといって私はその人の全てを否定しようとは思わないです。まぁ人間なんだから知らなかったり、ついうっかりそういう発言しちゃうこともあるよね。そのときに相手が傷つくってわかったらやめてくれる人ならむしろその人はいい人だ、位に思ってます。
少なくとも飯の席で、相手がタバコ吸わない人間だとわかっているのにそれでも我慢できずに煙草吸う人間よりは百倍いい人だと思います。(私はタバコ吸う人に関しては差別や偏見を持っています)
なので私はネットは過剰に潔癖主義なところがあると思っています。なにかについて差別意識を露呈してしまうと、善意か悪意かを問わず(※)その人の全人格を否定するかのような勢いで襲い掛かってくる人たちがいます。(※ちなみに、法律では「善意」とは知らずにそれを行うこと、「悪意」はそれとしっておこなうこととなっています。これは「故意と過失」と区別されます)
別にそこまでやらんでもいいと思うんですよね。問題点は指摘すればいいと思うけど、そこで相手の息の根を止める勢いで追い詰めようとするのはちょっと抵抗ある。
私は差別はよくないとは思っていても、知らずに人を差別しているかもしれないと思ってますし、差別との区別が難しい好き嫌いの話や「理由は不明だが生理的に受け付けない」たぐいの話もあります。 私はブログでいろいろと好き嫌いを書いていますが、好き嫌いがあるということ自体、「嫌い」って言われる側からしたらそりゃ差別だろって感じる可能性はあります。そういうこと考えると「自分は絶対に差別をしない」と言い切るのは難しいと思うのです。
もちろん差別に寛容であれというつもりはまったくありません。
そうじゃなくて「罪を憎んで人を憎まず」「差別を憎んで人を憎まず」であれ、という当たり前のことを言ってるつもりです。今はどう見ても「罪をみつけたら、その人に反省の余地も理解する時間も与えず間髪おかずにその罪を犯した人をよってたかってリンチして○せ」という勢いになってる人いますよね。
なんでこういう人たちは、自分が絶対に正義だと疑わないのかちょっと不思議です。そういう絶対的な自信を持てる人、ちょっとうらやましいです。
申し訳ないけれど、「反差別」よりも、こういう言葉に私は癒やされる
「少女不十分」コミック版の感想というか自分語り - この夜が明けるまであと百万の祈り
世間で語られるお話は、どれもこれも僕たちみたいな人間には冷たくて正しくあれ、強くあれ、清らかであれ、まっとうであれ、と語り掛けてくる。しかし今の僕には、そんな教訓じみた、説教じみた話はとてもできない。
道を外れたやつらでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまったやつらでも、ちゃんと……いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく面白おかしく生きていくことができるんだ……だから聞いてくれ。君の人生はとっくにめちゃくちゃだけど、まぁ…なにも幸せになっちゃいけないほどじゃやないんだよ
誰かがそっと手をのばすだけで、心の解決に繋がることが有る。人の言葉が与える影響は時折計り知れない。
http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2018/07/23/090000
「逃げてもいい」
その言葉を聞いた瞬間、モブの中でいびつに膨らみ爆発したエネルギーは行き先を変えていた。結果、一時的にモブのもつ全エネルギーが、霊幻に丸投げされた。
反差別の人たちは、悪を許さないというのはいいんだけど、私達を幸せにしてくれるかと言うとなんかね、あんまりそういう気がしないんだよね。申し訳ないけど。私はそれよりも、お前のようなやつでも幸せになってもいいんだよ、とか困ってるなら助けるよってひとこといってくれたら助かるなって思う。もちろんすごくミクロな考えであり、マクロの面で戦ってる人を否定してはいけないんだろうけどね。私なんてすごいちっぽけな存在だからね。仕方ないね。
あとこの記事についても語りたかったけど、、、もういいやつかれた。発達障害者の「自分のつらさをほかの人にわかってもらえないつらさ」について - この夜が明けるまであと百万の祈り
文章もぐちゃぐちゃだしやっぱりこういう話はブログですらちゃんとできない。ましてリアルにおいて、それこそ家族以上に信頼できる人でもなければ、こんなんまともに語れるわけ無いですやん。