キズナアイ騒動から1か月が過ぎた。その間ずっと見ていたけれど最終的に主要メンバーが「オタクモドキを許さない」に集結するという茶番が発生したことで完全にオチがついたように思う。私はこの1か月間、ちまちまと本を読みながらフェミニズムについて勉強しながらネットの様子を見てきたが、1か月見続けて、これはフェミニズムや社会学の問題という以上に「最近の男オタクを嫌悪するオタク」の問題なのだなと感じるようになった。*1
「おまえは人間になれない...。おまえは、なまはげにもなれなかった......元の飼い主の史代さんを襲った時、猿であることもやめた.........。なまはげでもない、猿でもない...おまえはそこでかわいてゆけ」 (「うしおととら」4巻)
そして、見事にそれを象徴する茶番で締めくくられたと自分の中では結論付ける。
「オタクモドキを許さない」「オタクモドキを許すな」の提唱者である絹谷たぬき先生の発言まとめ - Togetter
というわけで、この記事をもって私はキズナアイから始まった騒動に関する話について「自分の中での総括」を行い、おさらばしたいと思う。世間におけるキズナアイ問題の総括ではなく「私の中での」総括なので、他の人は勝手に議論を続けていただいて構わない。フェミニズムの勉強の過程で一つの例として触れることはあっても、キズナアイ問題をメインで語ることはもう終わりにするつもりだ。
なぜ男オタクへの嫌悪を示す人たちは「腐女子」「サブカル」「アート」界隈の人たちばかりだったのか
この件について私が思い出したのは以下の3つの記事です。
・トンデモさんは自分にあてはまる言葉で他人を批判する問題
・アート界隈の悲しき選民意識
・とあるサブカル男がしばき隊になってしまった経緯
トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する
この原因は、自分を理解するためのスキーマを使って他人の投稿を読むために起こっているものだと考えられる。「こんなことを言うのは、こういう背景があるからだろう」という推測、つまり行間を読むのは、自分のスキーマをベースに考えているわけだ。「自分がこんなことを言うのは、こういう場面でだけだから…」というわけである。なら、自分もそういう方法(あくまで推測)で応酬してやろうとして、トンデモさんが応酬のための批判をはじめると「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」になる。
先に書いたように、自分のスキーマを使って他人の主張を理解しようとすることは、誰でも日常的に行っていることで、これ自体はなにもおかしなことではない。しかし、トンデモさんの場合、そのスキーマが他人(主に批判者)から見て特殊なものであるため目立つ
「オタクモドキを許さない」人たちは、自分は客観的なものの見方ができていると思っているのである。だから、自分がモドキとそうでないかを判断できるということを疑わない。でも、彼らのいう客観的というのは単に「自分のスキーマ」に過ぎないのだ。これは文章読解の基礎を語った名著「わかったつもり」でも同様のことが書かれている。他人を解釈するときに、自分のスキーマから自由になれない人は「常に自分は正しく、相手が間違っている」という形でしか話ができない。浮世絵アイコンの豪傑さんがその典型例であるが、他人と話をしているように見えて、常に自分の内的世界に閉じこもっているので会話ができないのである。こういう人とtwitterがもたらすエコーチェンバーは相性が良すぎるのだが、それならそれで「自分を肯定してくれる、自分と同じスキーマを持った人たち」の輪の中に閉じこもっていればよかったのに、なぜ「オタクモドキを許さない」などと噴きあがってしまうのだろうか。ここに「魂の錬金術」が生じている。
情熱的な精神状態は、多くの場合、技術、才能、力量の欠如の証拠である。さらにいえば、情熱的な激烈さは、熟練や力量から生まれる自信の代用品になりうる。自分の技能に自信のある職人は、ゆったりと仕事にとりかかり、まるで遊んでいるかのように働きながらも、確実に仕事をやり遂げる。一方、自信のない職人は、まるで全世界を救っているかのような勢いで仕事に打ち込み、そうすることによってのみ、はじめて何かを成し遂げられると考える。
ものごとを考え抜くには暇がいる。成熟するには暇が必要だ。急いでいる者は考えることも、成長することも、堕落することもできない。彼らは永久に幼稚な状態にとどまる
彼らや彼女らの情熱的な激烈さは、技術、才能、力量の欠如の裏返しなのだ。これは悪いことではないが、四六時中twitterやってたら成熟する「暇」は一生訪れまい。私は意識的に時間を取って考えるようにしたい。
アート界隈の悲しき選民意識
彼らのせつない「アート志向」が見えてくると、簡単に「向いてないよ」「進路考え直せ」とは言えなくなります。彼らにとっては、美術、アートが自意識の最後の受け皿なのです。それを取り去ってしまったら自分の居場所がない。人とうまくつながることもできない。
「普通」の中で、「普通」のレベルについていけない自分と孤独に向き合っていくのは堪え難い。彼らにとってアートの世界は、「社会化」に抵抗するための場所ではなく、黙って受け入れてくれる幻想の「母」の懐のようなものかもしれません
自称でも何でもアーティストは、大人になることをいつまでも先延ばしにできそうな「自由」な立ち位置に思える。アートは「何でもあり」の世界だから、自分もここにいていいと思える。アートというジャンルが自意識のセーフティ・ネットになっているのです。しかしそうしたところから出てくる表現が、「私のことをわかって」からなかなか先に進まない
自分の居場所を求めてアート方面に来る人はありふれた存在です。
ありふれた存在の「私のことをわかって」表現が人を動かすのは難しい。
「オタクモドキを許さない」のタグを作った絹谷さんをはじめ、なんというか「違いを知る私」的なアピールが強い方々は、自意識の受け皿である「オタク」の価値が下がるのが耐えがたかったのではないかと思います。
これは私のスキーマの開陳なんですが、私は漫画ラノベアニメから美術まで何でも好きだし、美術を理解したり、アニメから愛や正義を学んだからと言って、違うものを学んだ人間より上等な人間だとかそういうの全然関係ないと思うんですよね。私はオタクという要素なんてむしろ周りから理解されなくてバカにされて当たり前だと思ってるし、それ以外に自分の中に誇りを持てるものを持っている人のほうが大多数だと思う。天才であれば一点極振りもありだと思いますけど、一般人は自意識の支えは何個かあったほうがいいと思う。オタク以外に拠り所がある人は、わざわざオタクという概念を浄化しようとか考えないと思うんですよね。
そういうところに「何者にもなれないが何者かでありたい」という人たちの悲しみを感じます。
とあるサブカルがしばき隊になってしまった経緯
anond.hatelabo.jp
反ヘイトの野間易通やbcxxxがなんでサブカル叩きをしてるのか、代わりに説明する - 廿TT
ぱよぱよちーん騒動のチン相(真相)その3|ろくでなし子|note
オタク差別全盛時代に差別の脅威をヒシヒシと感じて育ったオタクで、メインストリームでは生きられない自分の精一杯の防備を固めるためにサブカル(オタクを蔑視することで差別される弱者の位置から逃れようとする生き方)に走りサブカルをやってたせいでオタクにもたらされた開放に立ち会えずに未だに自意識の檻に囚われ続けているオタクだ。
サブカルはオタクよりも弱い人達だった。当人の心性も、結果的に追い込まれた立場も。追い込み続けるのは自分を肯定出来ない弱さとその逃げ道としての自己欺瞞だ。
脱オタクしてサブカルの立場でオタクを侮蔑し、脱サブカルして活動家の立場でサブカルを侮蔑し、つまりいつまでも自分自身を肯定することが出来ない。
これは「サブカル、語る」というブログタイトルがそのまんまの人がいますね。この人は記事が面白くないのでわざわざ1記事使って語る価値がないなと思って今まで言及してきませんでしたが、まぁテンプレラノベ以上にテンプレな「オタクとしてはキャラが弱いのでサブカルを語ることで他のオタクと差別化をしたがるオタク」さん。2012年ころの三沢さんがこんな感じでした。
特に苦しい思いをするのは、「○○○が好きならガチ勢でなければいけない」と思い込んでしまった人である。 「自分は○○○をとても好きだ。真剣だ。しかし、ガチ勢として認められないと、なんだかその気持に自信を持てない。胸を張って○○○が好きだと言えない。」こういうふうに考えるととたんにしんどくなってくる。
何回か記事を読んでて、「実にしんどそうにオタク(サブカル)をやっている人だなぁ。そんなにしんどいならオタクとかサブカルなんてやめればいいのに」と思っています。自分のしんどさを他人への攻撃にすり替えるような人って、いくら知識があろうが話してて面白くないですよね。
今後の「オタク嫌悪のオタク」さんたちとの接し方について
私は当初からフェミニズムそれ自体には敵意はないことを何度も表明している。そのうえで「オタクモドキを許さない」のタグに集まった豪傑たちが「フェミニズム」だけでなく「公の感覚」「オタクのあるべき姿」まで自分の思い通りにしようとふるまう姿を見て、「庇を貸してやったら家全部を乗っ取ろうとする人たち」(家族喰い)に勝手に居座られて気の毒だなとフェミニズムには同情する気持ちになった。
私は今後、この人たちについてはイケ●ハヤトさんと同じだなんだと考えることにします。
・「会社員という生き方をドロップアウトしたから会社員をけなしつつ転職アフィで儲ける」ことと、「オタクである自分を自己肯定できないからオタクを叩くことで敬意を集めようとする」のはどちらも中島義道が言った復讐的な生き方であるという意味で共通している。
・また、自分がその場所にいるときはそれを持ち上げ、終わった瞬間オワコン扱いしたり、こき下ろしたりするが、結局のところ自分の立ち位置が安定しないから肯定すべき自己を持たず、「常に否定する何かを求める」という意味でも同じである。この人達は一生満たされること無く常に誰かに文句を言い続けるのだと思う。
・お金儲けの代わりに自尊心を稼ごうとしているだけだでやってる本質は何も変わらない。
別にそれが絶対ダメとは言わないけど、己の復讐のために関係ない人もお構いなしに殴るような迷惑なだけの人間には敬意をもって接するべきではなく、正しく「イケ●ハヤト」的な存在であるという扱いをすべきだろう。
今後のフェミニズムとの接し方について
これ以降もフェミニズムについてはちまちまと勉強を続けるつもりだが、逆に彼らのオタクバッシングに関しては、ネタにすることはあってもまじめに向き合う必要はないと感じた。
私は、フェミニズム自体はオタクの在り方と決して敵対するものではないから敵視はしない。オタクを敵視する人をフェミニズムと雑にくくることもしない。「リベラルフェミニズム」を読んで、フェミニズムには共感できるところや学ぶべきところがあることはよくわかった。
フェミニズムだからといって頭ごなしに否定するのではなく、むしろフェミニズムの中にはいろんな考え方があることを理解した上で、様々な考え方を個別に評価し、理解しがたいものには疑問を呈し、自分なりに尊敬に値すると思うものを後押ししていくことにしたいと思う。セレクティブエネミーの逆は何と言えばいいのかな?
「ミソジニーのフェミニスト」という存在があり得ることを知って、警戒したほうが良いと思う - この夜が明けるまであと百万の祈り
「文化的オムニボア(雑食性)」 (この仮説に従うなら)ラノベ表紙騒動やキズナアイ騒動は、男女問題ではなく階級意識の問題 - この夜が明けるまであと百万の祈り
例えば、この記事は個人的に素晴らしいと思いました。
素晴らしい
— よしき@ランス10大好き (@yoshiki_anime) 2018年11月8日
https://t.co/cE5AA3NFrV
フェミニズムがこうした姿勢を前提としているものであれば、私は強く応援したいと思うし、自らも参加したいと思う。
多様な個人をある属性で括って理解するのは本質的に暴力です。
そのような属性にまつわる社会の傾向性への批判をそれはそれとして行いながら、属性で人を括ること/規範の押し付けが孕む排除や抹消その他の暴力に抗うのが、わたしの理解するフェミニズムです(「“女”という主体なきフェミニズムの政治を」というジュディス・バトラーのフェミニズムを、わたしはこうした形で理解しています)。一方では個々人を縛る「属性」というものを想定し批判しながら、他方ではその「属性」によって人を括ることにもあらがうんです。本質的に困難な営みとしか言いようがありません。そしてそのような困難さの陥穽は、昨今見られるフィクションに対する政治的批判が陥っているものとよく似ているように思います。
今までが「女を主体として」、「対社会・対男を前提とした運動」であったものが自分たちも責任主体として自覚をもって、よりより個の生き方を目指す哲学のようなものになっている。この困難な営みを目指す限りにおいて、私は「一人一派」というものを完全に肯定します。