の続き。徐々に馬だけではなく、騎手や厩務員、牧場主、馬主へと話が広がってきておりますね。
- 作者:やまさき 拓味
- 発売日: 2017/05/26
- メディア: Kindle版
1話 小島太とサクラ軍団(サクラショウリ・サクラチヨノオー)
・実の父・小島竹次郎は装蹄師。子供の時トキノミノルを知り、騎手を志すことに。
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・二人目の父は・サクラ軍団総帥の全演植。太を良い馬に乗せてくれると竹次郎に約束。
・三人目の父が高木調教師。
・高木の死から二年後にサクラショウリで初のダービージョッキーに。
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・全さんのおかげでサクラ軍団と専属契約をできていたが、あえてその契約を破棄する。
・しかし小島竹次郎の死の1週間後、太はサクラ軍団の馬サクラチヨノオーで朝日杯勝利。全は太を決して見捨てなかった。
そして、サクラチヨノオーはそのままダービーでヤエノムテキ・メジロアルダンらを下して勝利する。
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シンデレラグレイでは、オグリキャップが出場できなかったレースだったのであっさり描かれていたが「小島太」の物語としてみると30年越しの悲願達成というドラマがあった。
このあたりを意識しながら読むとより楽しめそうです。
2話 サンエイサンキュー事件後の寺井牧場
G1勝利こそなかったものの、牝馬として非常に強い走りをした牝馬。
1991/12/01 阪神 阪神3歳牝馬S GI 2着
1992/05/24 東京 オークス GI 2着
1992/11/15 京都 エリザベス女王杯 GI 5着
1992/12/27 中山 有馬記念 GI 競争中止
サンエイサンキューの活躍によって母馬が見直され、牧場は息を吹き返すことができたらしい。
サンエイサンキュー自身は悲劇の馬だった。
金欠気味の馬主によって無理な出走を強いられ明らかに調子を落としていったあげく、最終的に3歳の年末有馬記念で予後不良級の骨折。
しかし馬主の意向で安楽死措置は取られず無理やり延命されるもどんどん衰弱していき2年後には体重が200kg近く減少。結局病死してしまう。
それでも牧場主にとっては親孝行な馬だったというお話になっている。
3話 四位洋文に初めてのG1勝利をプレゼントした馬・ダンスパートナー。
北海道ではなく鹿児島県霧島温泉郷生まれ。(今は生産地ではなくなっている)
中央競馬学校入り時代に祖母が病死。
G1初勝利を果たした四位はその賞金で、生前の祖母に約束した大きな風呂付の家を建てた。
4話 マルゼンスキーの光に隠されてしまった不運な馬・ハードバージ
皐月賞を勝利したが、「マルゼンスキーがいなかったからクラシックで勝てた馬」扱いされ過小評価されていた。実際のレースを見るとかなり強い走りをしているのだが……。
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持ち込み馬であるがゆえにクラシックレースに出られないという不運に見舞われたマルゼンスキーだが、その不運はマルゼンスキー自身だけでなく、同世代の馬たちにも降りかかった。なにしろ、例えクラシックの有力候補が出てきても、「どうせマルゼンスキーにはかなわないんだろ?」「マルゼンスキーが出ていたら勝ち馬の何馬身前を走ってただろうか」と、常に「クラシックレースに出走したマルゼンスキー」という幻影と比較され、時には不当に貶められてきた。この不当な評価は引退後も続き、内国産種牡馬不遇の時代が重なったことも手伝って、ハードバージは種牡馬としてもマルゼンスキーに遠く及ばない成績(それどころか一応は代表産駒と呼べる馬を輩出したラッキールーラやプレストウコウにすら負けた)で、種牡馬を廃用になってしまう。
それでもシンジケートが組まれ種牡馬入りするが、シンジケートは解散。乗馬クラブに売却されるが乗馬の適性がなく観光馬として酷使される。
ショーでの見世物用や馬車を牽引する際の馬車馬として買われていったのだ。そして「中世騎士の騎馬合戦」をテーマにしたホースショーへ参加したのだが、それは鎧も含めて90kg以上という重量を背負って行うという過酷なショーで、3週間ぶっ続けで参加したハードバージは急激に衰えて飼葉食いが悪くなった挙句、日射病に倒れてそのまま死亡。この末路は新聞に取り上げられ批判が殺到。名馬の余世を考えるきっかけとなり、後に助成金制度や養老施設が作られる契機となった。
なので、あんまりうかつに「ここにマルゼンスキーがいたらなぁ」とは言うと無神経という話になりそうである。
6話 シンザンの死
当初はファンにも墓の場所は教えられなかった。