頭の上にミカンをのせる

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「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」  ハンディキャップやコンプレックスをどのように自己表現に変えていくか

※2015年8月に書いた記事を少し修正しました。

好き嫌いが別れやすい「押見修造」作品。これは作者の経験を下敷きにして描かれたそうです。これも「疎外」の話。



意味深なタイトルのように見えますが本当にタイトルの通りで、魔法とか呪いとかそういう話ではなく「吃音」で自分の名前が言えない女の子のお話。どういうことかというと吃音には「連発型」と「難発型」というものがあり、この作品にでてくる志乃という女の子は「難発型」のため、自分の名前が言えないのですね。
(「連発型」は「ぼぼぼぼぼぼぼぼぼくは、おおおおおおにぎりが……」と、最初の音が連続してしまう症状で、「難発型」はとにかく最初の音が出てこないので「……っ……」と無言になってしまう症状。)


「吃音」の女の子が主人公ですが、吃音そのものを描くことが目的の作品ではなくて、

・「コンプレックス」を抱えて下を向いて生きている女の子が、勇気を出して前を向いて行動できるようになる
・自分のことだけで頭がいっぱいだった子が、他人を思って行動できるようになる

そういう青春の一幕を描いた作品です。

この漫画では、本編の中では「吃音」とか「どもり」という言葉を遣いませんでした。それはただの「吃音マンガ」にしたくなかったからです。とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になればいいな、と思って描きました。

というわけで、短い話ですが結構グッとくるものがありました。


「誰にも理解されないコンプレックス」を抱える辛さ

この作品において押見修造は吃音の子をあえて気持ち悪さを強調して描く。汗が出まくり、キョロキョロして挙動不審、つばを飛ばしまくり。リアリティや迫力があるといえばあるのだけれど、正直言って読んでいる私も「なんだこれ」「これは気持ち悪い」と感じてしまった。作者もそれを意図して描いているのだと思う。
そして、この作品では学校の先生はそのことをフォローしないし、周りはそんな「吃音」というものに理解をしない。ただ吃音の彼女を異常者扱いしたり馬鹿にするだけだ。なんだか作品世界は彼女の敵であるかのように感じる。

吃音の苦しみは、“特殊な事情”であって、そのため他人と分かちあうこともできず、ただ自分ひとりで耐えるほかないものだ。つまり、〈吃音〉とは本質的に他者とのあいだで“交換価値”をもたぬ不毛な苦しみである。

これは当時の金鶴泳にとっての吃音であり、現今の吃音者が必ずしもそうであるわけではないだろうけれど。僕に印象深かったのは、「凍える口」のなかの、自分がかくも苦しんでいる理由が吃音だと聞けば人は笑うかもしれない、そのことがいっそう苦しみを耐え難くする、といった言い回しだ。主人公は、いっそ他人に語るに値するだけの事情があればとかえって思う。

健三は孤独であるが、彼は無意味に孤独なのだ。この点で彼の孤独は、友人を裏切り、親族にあざむかれた、という確実な原因を有する「先生」の孤独より一層悲惨であるといわねばならぬ。

http://kaolu4s.sp.land.to/okiba/imaki.hp.infoseek.co.jp/r0109.shtml

そんな世界において、彼女は自分に自信を持てず、他人の目を気にしすぎてますます挙動不審に陥り
そんな自分が情けなくてどんどん塞ぎこんでいってしまう。

笑われるだけの自分。 そしてだんだん臆病になっていく。
何も言えなくなる。それが周りを苛つかせるとわかっていても。
目の前が真っ暗になる。窒息していく。心が、言葉が死んでいく…
(「フルーツバスケット」5巻 草間杞紗)

そんな彼女が、あるきっかけを元にして、コミュニケーションを取ってくれる相手を見つけ、
そこからも紆余曲折あるけれど、「吃音」自体は治ったりはしないけれど、
それでも恐れずに、大事な人ために自分から行動を起こせるようになる過程は素晴らしいと思う。






ここからは余談。

「つらい経験をした人は他人に優しくなれる」は真っ赤なウソだが、「つらい経験を活かして他人にやさしくなろう」と意思することはできる。それを意思するためにはどんなきっかけがありうるのだろう?

私は「ありのままの自分」否定派であり、そんなものはクソくらえだと思っています。

「本当の自分がそうだから仕方ないんだ」「本質を偽って行動するのは偽善だ」とかいってその「本質」やら「本当の自分」をありがたがったりさらけ出してる人のことはどうしても好きになれません。なぜなら、私は自分の本質なんてろくでもないと思ってるからです。自分の本質に価値があると思える人は何をもってそんなに「ありのままの自分」なんかを信じられるのか教えてほしいものです。それよりも、本質がどうあれ、自分をどういう方向に持って行きたいかという意思の方が百倍大事だと思っています。

意思すること。本質に、その性に、その起源に抗うこと。「貴方の本質じゃない。貴方が意思するその姿が私は好き」(「幻想再帰のアリュージョニスト」)

http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2015/04/15/224520

だから、つらい思いを経て、その人がどういう自己になることを意思したか、どういう自己表現をするに至るか、ということこそとても大事だと思います。

・「つらい思いをしたから自分も他の人に同じ思いをさせてやる」という人も少なく無いだろう。
・「つらい思いをしたから自分はもう人と関わりたくない」と、人生に絶望する道も当然ありうる。
・「つらい思いをしたから自分はそれを活かして表現者になる」という方向に進むこともある。

そんな中で、「つらい思いをしたけれど、そのことで自分は他人の痛みがわかるから優しくしたい」って自己表現を選択する人はむしろかなりレアなんじゃないだろうか。なんでわざわざそんな方向を選ぶ?どこにそんな必然性がある?

そう考えた時に「そういう方向を選べた人のストーリー」は貴重だと思う。他人に優しくなりたいとは思っても、つらい思いをしたり、強いコンプレックスを抱えているとなかなか勇気が出てこないと思う。そういう時にこの作品のような「ストーリー」を持っておくことは意味があると思う。

僕にとっては、たまたまマンガだったというだけで、それは人それぞれにあるんだと思います。どんなに小さなことでも、大きなことでも、世界を反転させる何かが一つだけ、一瞬だけでもあれば、それで生きていけるんじゃないかなと

この世界の誰一人、見たことがないものがある。それは優しくて、とても甘い。たぶん、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ。だからこそ、世界はそれを隠したのだ。そう簡単に手に入れられないように。だけどいつかは、誰かが見つける。手に入れるべきたった一人が、それをちゃんと見つけられる。そういうふうにできている。(「とらドラ!」 1巻)


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