これとか
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このあたり、言いたいことはわかるし、私はさらに気持ちもわからないことはない。
ただ、神奈川新聞の記者は表現があまりにも下手くそだし、雑だし傲慢だ。
私はこの記者の言い分はわかる気はするが、でもめちゃくちゃ嫌いだ。
こんな下手くそな例えを使う人間の話なんかどうでもいいわ。
「光とともに」とか「どんぐりの家」を読め。常にありがとうと言わなければいけないことがどれほど消耗するかもっとわかりやすく描いてくれてるから。
以上。
以下はあくまで「私の感覚」について話をする(※別に私の感覚が一般的に正しいとは全く思ってないので、いちいち否定しなくてもいいですよ)
私はこれを心理的安全性とか貢献感覚の欠如の問題だと思っている。そしてこれは「差別」とは直結していない。
障害者当事者にとっては、これが差別であろうがなかろうがそこは表面的な問題でしかない。
なので私は「ありがとう」の話題は差別がメインの話だと認識していない。
安易に差別の文脈に回収しようとするクソ正義厨には「お前じぇねえ、座ってろ」といいたい。
これは当事者にとっては差別をなくしても解決しない問題なのだ。むしろ差別でないほうがよほど辛いまである。こういう感覚が、神奈川新聞の記者には全く分かってないのではないかと思う。だから担々麺の意味わからん比喩を持ち出し、安易に差別の問題として回収しようとするのだ。 それ発達障害者に関する話題で同じこと言えんのか?そうじゃないなら神奈川新聞の記者は分かったつもりになってるだけで何も分かっちゃいない。安易にわかったつもりになってんじゃねえよふざけやがって。
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当事者の殆どは「マイナスだからやってくれて当たり前だ」「ありがとうなんて言う必要はない」なんて思えるわけもないし主張もできるわけない。健常者の立場からそんなものを他人に要求するな。神奈川新聞の記者の言い分は、原発ツーリズムついでに自分たちは生活がかかってない状況で当事者たちにやたら怒れ怒れと煽ってた東と津田くらい無神経だ。人の心とかないんか。正義振る前にそのデリカシーの無さをなんとかしてほしい。
それとくらべれば、こちらのtogetterまとめのほうが、批判はされやすいだろうがはるかに本質的な話をしている
「障害者にとって『ありがとう』というのは苦痛」と言うの、叩かれがちだけど私もその気持ちは結構わかるのよ(障害者(精神)の端くれとして)なぜならありがとうと言うことは沢山あっても、ありがとうと言われる機会は無いから。つまり、私が感謝されないのはずるいという考えになるのね。
知的障害者はこの辺もっと深刻だと痛感してきてて…生育歴こじらせると更に。「対等性」やら「ギヴ&テイク」やらの理想主義が何を排斥してきたかを真剣に考えないと、共生社会など幻想
ギブアンドテイクという言葉があるけど、障害があって能力が低いとギブという与える行為が難しくなるからねぇ・・・ https://t.co/0SYTISJpyu
— アルカディアの牧童 こみトレ43-C40a (@PYU224) 2024年3月19日
さすが当事者という感じだ。
コレと比べたら神奈川新聞の記者のたとえはカスや。
そうなのだ。これは誇りの問題であり、自己効力感の問題なのだ。
なのに、なんでもかんでも安易に差別という文脈で語ろうとされると本当の苦しい部分が隠されてしまう。
自分の苦しみが、反差別の方々のオナニーに使われてるような嫌な気分になる。
私はネット上の反差別の人たちの認識の雑さや傲慢さ、わかってないのに知ったかぶって語るそのやり口が本当に嫌になる。
この人たちに分かったようなツラをして代弁されたるのは本当に御免被りたい。
- 以下はあくまで「私の感覚」について話をする(※別に私の感覚が一般的に正しいとは全く思ってないので、いちいち否定しなくてもいいですよ)
- 常に負い目を感じる状況だと「自己効力感」の欠如や「見捨てられたら生きていけない」という恐怖が常にデバフ効果を発揮する。 その結果極端に卑屈な精神の温床になるし、極端に卑屈になるともう「ありがとう」と感じることすら苦痛になることがある
- 障害者にだって、というか障害者こそ、誇りを得るための機会をより切実に求めている
- とはいえ、「ありがとう」を拒否するという宣言をしても誰も幸せにはならない
- そもそも差別に反対するなら、正しさを掲げて健常者にケンカを売るより前に健常者を仲間にする方が先だ。自分は安全圏にいるからと言って「正しさオナニー」の道具に障害者を使うな