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おお、ちょうど裏付けとなるような話がでてきましたね。
オープンレターズに付け狙われた呉座勇一先生、教育方面や人文リベラル方面からみるととても困るってなところに突っ込んだんだよね。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2025年9月26日
『一揆の原理』は傑作ですよ。
これ一発で、戦後教育学のもろもろが結構吹き飛んじゃうの。https://t.co/zy8xaqAyDY
陰謀論っぽいのでそこに付き合うつもりはないのだけれど、それはそれとして「一揆の原理」で語られている内容はめちゃくちゃ面白かった。
1. 「左派運動家のロジック」
左派運動家のロジックは以下の三段論法で構成されている。
①「民衆の(権力への)抵抗の物語」の積み重ねこそが、封建社会を打破し、社会の進歩を作ってきた
↓
②民衆の(権力への)抵抗は、歴史の法則にかなう正しいもの(の、はず)
↓
③我々の運動は権力への抵抗であるから正しい
このロジックの根拠として「一揆」が利用されてきたという主張です。
2. 呉座勇一氏による従来の一揆観の否定
呉座勇一氏の2012年の著書『一揆の原理』は、戦後の通説的な一揆理解を根本的に覆しました。
従来の解釈:
・一揆=圧政に苦しむ農民による反権力的な武装蜂起
・階級闘争の一形態
・封建制度への抵抗運動
呉座氏の新解釈:
・一揆=「一味同心」を意味する社会的ネットワーク
・身分を超えた契約関係に基づく組織
・既存の権力構造内で認められた正当な制度
・武士、僧侶、貴族、富裕農民などが多様な目的で結成
史料に基づく実証的アプローチ
呉座氏は一揆契状(いっきけいじょう)や起請文(きしょうもん)などの一次史料を詳細に分析し
一揆が「一味神水」という神聖な儀式を通じて人工的な親族関係を作り出す洗練された社会システムであったことを明らかにしました。
3. 検証結果:ツイートの主張の妥当性について
①「左派運動家のロジック」の存在について
検証結果:おおむね正確
戦後日本の歴史学界、特に1960年代の東京大学を中心とするマルクス主義史学者たちは
確かに一揆を「前近代的階級闘争の定型」として解釈していました。
1961年に刊行された全5巻の『一揆』シリーズなどがその代表例です。
石母田正(いしもだしょう)などの共産党員でもあった歴史学者は
「天皇制によって抑圧された民主的共同体」という理論を展開し
日本史を「抵抗の物語」として再構築しようとしました。
②呉座氏による否定の実態
呉座氏の研究は以下の点で従来の一揆観を否定しています:
・階級闘争説の否定:一揆は階級を超えた多様な身分の人々による契約的組織
・反体制運動説の否定:一揆は既存の権力構造内で認められた正当な制度
・農民蜂起説の修正:指導者は富裕な村落指導者層(「百姓」は誤訳で、実際は「裕福な自作農」)
・経済的困窮説の否定:一揆は経済的繁栄と人口増加の中で発生
③教育・文化への影響
戦後教育における影響:
・日教組(日本教職員組合)の影響下で、進歩史観に基づく一揆像が教科書に採用
・生活綴方運動を通じて、抵抗の物語が教育現場に浸透
・国分一太郎、宮原誠一などの教育者が左翼的歴史観を推進
文化的影響:
白土三平『カムイ伝』(1964-1971)が1500万部以上売れ、大きな文化的影響
1960年代の学生運動において、一揆が抵抗のシンボルとして利用
そんなことはどうでも良くて、「一揆の原理」で語られていた江戸時代の農民たちの経済状況の話がめちゃくちゃ面白かったので簡単にまとめ
1️⃣1600-1720年に人口が倍増( 約1,200万人→1720年頃(享保期): 約3,100万人)

・人口増加の要因は政治的安定と新田開発の急速な進展
(耕地面積が1600年の約206万町歩から1720年には約297万町歩に増加)
河川改修技術の発達により、それまで耕作不可能だった土地が農地化
=飢饉や戦乱で人口が減少する中世とは異なる状況で、人口を支えるだけの食糧生産能力があった証拠。
2️⃣農業生産性の継続的向上

・農業技術の発展(二毛作・三毛作の普及・肥料の改良・品種改良・農具の改良)
・商品作物の発展(綿、菜種、藍、煙草などの換金作物の栽培拡大でこれらは米よりも高い収益性だったため農民の現金収入増加につながった)
・農書の普及(『農業全書』などの農業技術書が出版し、識字率の向上もあって農業知識が広く共有)のため各地で最適な農法が開発・普及
=17世紀初頭の1反あたり1石程度から、18世紀には1.5石以上に向上した地域も
3️⃣・実効税負担の低下(定免制のため)

・検見法から定免法への移行 : 過去の平均収穫量に基づいて年貢額を固定(通常3-5年間)
・なぜ実効税負担が低下したか=生産性向上と固定税率のギャップ
年貢率は「四公六民」「五公五民」などと固定されていたが、実際の生産量は技術革新により増加しており、固定された年貢額以上の増産分は農民の手元に残っていた。
具体例
初期設定時:収穫100石、年貢40石(四公六民)、農民の取り分60石
技術革新後:収穫150石、年貢40石(固定)、農民の取り分110石
・新田開発の一部は検地帳に記載されない「隠田」は課税対象外であり農民の実収入をさらに増加させた
4️⃣James W. Whiteの研究(1995年):「一揆は悲惨さからではなく、増大する豊かさから生じた」

White氏は、一揆が経済的困窮から生じたという従来の説に対し、詳細な経済データ分析により以下を実証しています。
・一揆の発生時期と経済状況の相関をみると、一揆が多発したのは飢饉の年ではなく、むしろ経済成長期であった。特に18世紀前半の経済発展期に一揆が頻発している。
・一揆参加者の経済的地位をみても指導者の多くは「村方三役」(名主、組頭、百姓代)などの富裕層であり、土地を持たない水呑百姓ではなく、本百姓(土地所有農民)が中心。経済的に成功した層が、さらなる権利拡大を求めて行動していた。
・要求内容を分析してみても、年貢の「軽減」ではなく「不当な増税への抵抗」が多い(商品作物の自由な販売権の要求や村の自治権拡大の要求など。つまり「生存」ではなく「より良い条件」を求める交渉だった)
なぜ「豊かさ」が一揆を生んだのか=交渉力の向上

・経済的余裕により、年貢納入を一時的に拒否できる
・商品経済の発展により、領主も農民の協力が必要など農民側に交渉の余地が生まれた
これによって農民たちの期待値が上昇し、生活水準の向上により、さらなる改善を求める意識が芽生えた。
他藩との比較により、自藩の政策への不満が顕在化し、「このままでは困る」から「もっと良くなるはず」への意識変化があったとされる。
最も重要なのが組織力の向上であり富裕な農民層が資金と時間を持つようになったことや、識字率向上により、文書による要求書作成が可能になり、村落間のネットワーク形成が容易になったことが大きかった。
つまり、これらのデータが示すのは、江戸時代の一揆は「絶望的な貧困への抵抗」ではなく、「経済発展の中で生まれた権利意識の表現」だったということです。
農民は飢えていたのではなく、むしろ豊かになりつつある中で、その豊かさに見合った政治的発言権を求めたのです。
結論
・戦後の左翼的歴史観が一揆を「民衆の抵抗物語」として利用してきたことは事実
・呉座勇一氏の研究がこの従来の解釈を実証的に否定したことも事実
・この歴史観が教育や文化を通じて広く浸透していたことも確認できる
ただし、以下の点には留意が必要です:
・すべての一揆が平和的だったわけではない
・地域や時代による多様性がある
・学術的議論は現在も継続中
江戸時代の一揆について
・確かに多くは非暴力的な団体交渉の性格を持つ
・しかし暴力を伴うケースも少なくない(打ちこわし、放火など)
・島原の乱では3万7千人が死亡
・指導者は処刑されることが多かった
「滝山コミューン」のことを思い出した
私ははてなでガンギマリ左翼仕草をしてる人は、1970年代に学校教育を受けてた人が多いと思っている。(実際「カムイ伝」について言及する人多いしね・・・私は途中で読むの挫折しましたが)
それはこの本の印象があまりに強かったからだ。


