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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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善意が正しく発揮されて正しく受け取られるのはいかに難しいことか

そして、それが成立することがいかに嬉しいことか、みたいな。

宇佐美氏が、ある未亡人の老婦人の誕生日にレストランで食事をしてプレゼントする。

老婦人 「~できれば本当に18歳の頃こんなことがあれば良かったのに」

宇佐美氏「でも現実の18歳は自分の時間が宝石のように輝いて貴重だなんてことに気づきもしないものですよ」

ご婦人「そうね ちゃんと価値がわかったうえで贈り物を頂くー私はとてもぜいたくなのね
(「pap told me 24巻 アップルハーベスト」より )

私はこのやり取りが好きで好きでしょうがないのです。

なぜかというと、そのくらい「善意が正しく発揮されて、それが正しく受け取られる」と言うのは難しいから。

それが成立するということがどれほど幸せなことなのかをわかっていてそれを味わっている人たちがすごく羨ましかったから。

自分の中ではこの会話、心のなかに理想として根付いてます。



※以下は、ちょっとドロっとした話なので読む人は注意!


「素直に受け取れない善意」で悩まされた経験ってありますよね?……ないかな?

でも実際、殆どの人は「間違った善意の押し付け」に苦しんだり、「間違った善意の求め方や受け止め方」をして相手を傷つけたり、そういうの繰り返してますよね。

「お母さんが…泣いて寝込んで、部屋から出てこないの。今まで気づいてくれなかったって私が責めたから。
 でも、違うの。お母さんに泣いて欲しかったわけじゃないの。
 お母さんに傷ついて欲しかったわけじゃなくて
 ただ、辛かったねって 言ってほしかった だけ で
 今まで 辛かったね って…」


やんわりと受け取ればいいのだろうか。しかしそうやって受け取ったらこれを肯定したことになって行為がエスカレートしてしまうかもしれない……。それは嫌だ。
きっぱりと断ればいいのだろうか。しかしそうすると受け取りを拒否したことを逆恨みされたりするかもしれない。なぜか一つ断っただけで愛情をそのものを拒否したことになって親が泣いてしまう……。私はそんなに悪い子なのだろうか。
受け取ったあと、見返りを求められたりしないだろうか。自分が心から感謝してお返ししたいというのではなくなんだか相手が望んだ形で自分ではしっくりこない返し方を要求されるのではないか……。

そもそも、善意でやってるのに素直に受け取れない自分はどこかおかしいんじゃないか、とかね。
こういうことを繰り返し経験すると「ズレた善意こそが最も恐ろしい」と感じるようになってしまう。

自分の善意をうまく扱えない

そして、こういう体験や感覚は、逆に自分が善意を表明する際にも呪いとなって機能する。

「自分が良かれと思ってやってることって本当に相手のために良いのだろうか」という疑いが生じるとなかなか動けなくなる。 
自分の中に善意を意識した途端に動きがぎこちなくなってしまう。

自信がないから「偽善」って言葉に怯えたり、受け取られないことをすごく恐れて押し付けてしまう。
自分の善意が喜ばれているか不安だから何度も確かめたり、いっぱい言い訳したり、うざいやつになる。


で、一生懸命考えすぎた善意ってほんとにぎこちないから、相手に喜ばれないんだよね。
それでますます「やっぱり自分ってアカンのかな」とか思い始めるともう自意識過剰のループです。

こんなに苦しいなら……俺は、愛(善意)などいらぬッ!!

こじらせすぎて善意そのものに忌避感を感じるのはいくら何でもやり過ぎ

さらにこういう状態をこじらせると、善意=良い物、と疑いもせず、
ところかまわずむやみに善意を振り回してる人に本気で苛ついてぶん殴りたく成る。
その人達は自分に何もしてないのに、過去のいろんな嫌な思い出がまとわりついてすごく苛々する。

いるんだよなぁ職場に。善意の塊みたいな若い子が。
すごくいい子なんだろうと思うのに私はその子がすごく嫌で、その子を嫌がってる自分にまた自己嫌悪したりする。

ネットでアホみたいに肯定するのがいいことだと念仏のように唱えたりだとか
返報性を悪用する互助会的行為をしている人たちは、見ているだけで腹が立ってくる。
私ははてブ嫌いだし、はてなホッテントリなんかどうなろうがどうでもいいけれど、彼らの無邪気さこそが最も苛立たしい。

理不尽すぎますよね。自分でもどうかしてると思う。
でも、じゃあどうすればよかったんだとか、私が悪いのか、とかどうすればいいんだ、とかいろいろ悩んだりします。

まぁ普段はそこまで意識してないんだけどね。考えだすと結構根深い物があるかもしれないです。

だから、普段から「内面」について深く考えずに「行為」として良いか悪いかだけを考えるという態度に成るんだけれど、
本当は、感情面とかも素直に受け取れたほうが、多分嬉しいことってあるんだろうなとは思ってます。


でもね、普段から善意やら気遣いやら過大評価されるような空気って私にはホントにほんとにほんとにしんどいです。



「善意」そのものが悪いわけはないんだから、怖がらずに付き合えるようになりたいよね

と言ってばかりでもラチがあかないので、なんとかうまいこと付き合っていきたいなーとは思ってます。

千羽鶴折りたい人には「迷惑だ」ではなく「代わりにくまモンの絵をネットにアップしよう」と言いたい - ←ズイショ→

行為だけじゃなくってそういう間違った発揮の仕方をした善意それ自体まで要らないもんだと切り捨ててたら、善意なんてアッという間になくなっちゃうよ

「何もしない」というひとつの支援の形 - スズコ、考える。

迷惑になるかもしれないけどとにかく何かしよう、何でもいいからしよう、ではなくて、今の自分たちにできることはなんだろう、対象となる方々には何が必要だろう、思いついた行動を起こしたときにどういう影響があるだろう、それを考える


千羽鶴より、新しい折り紙1000枚のほうが良いと思う

その時間で、「入院した級友が何に困ってるか考えましょう」ってやってほしかった。
そして、自分たちがやれそうなことをすればいい。
結論として、「私たちにできることは何もない」でも、良かったと思う。それが事実かもしれないのだから。


そのあたりはまだいろいろと取組中ですので、ここで書けるようなことは何にも無いんですけれど。
最近ちょっとずつ、素直に善意を受け取れて、素直に善意を発することができるような関係が出てきたような気もする。

やっぱりそういうの嬉しいよね。 冒頭のようなやりとりを味わえるような関係を作れるようにしたいです。



唐突だけど、この記事で書いたような観点からこの作品を読むともう涙が止まらないくらい好きです。
最近この作品好きすぎて記事が書けなくて困ってます(´・ω・`)