ユーモアの明白な表出が無い限り、誰かが本気だと誤解しない形の過激主義または原理主義のパロディを作るのは不可能である。
声の抑揚やボディランゲージなしでの個々人のコミュニケーションは、いともたやすく誤解を招きます。横向きの顔文字 :-)は「冗談だよ」の表現としてネット上で広く受け入れられるようになって来ています。そういうシンボル無しで皮肉めいた書き込みをした場合、どれだけ明々白々な皮肉だろうと自分で思っていたところで関係なく、他人に本気で受け止められても驚くようなことではありません。
つまり「ネタ」はわかりやすくやれってこと。
「ネタ」が「マジ」だと受け止められる場合、その人の文章にはユーモアが足りない。
それならそれで「これはネタです」と明確に伝える義務があると思う。
ユーモア不足でネタをネタと伝えることが下手な人ほど明記する必要があるだろう。
それすらできないならその人はネタ記事を書かないほうが良い。
まず、彼の記事はネタかマジかわからない、じゃなくて100%ネタ記事です。
『シン・ゴジラ』を観て笑える神経が理解できない - さようなら、憂鬱な木曜日
読んだ。「わかりにくいネタ」記事だ。ネタであることはわかっても楽しくない。
「なぜ笑える。日本は大変な状況、笑ってる場合ではない」と散々言っといて「映画なんだから」と落としている
随所に笑う「べき」理由を書いているのに笑うなと言ってみたり、前半にリアリティある映画に引き込まれあたかも映画と現実を混同してしまっているかのように語りながら、後半は「映画なんだから当たり前だろ」と矛盾したことをあえて書いているのでネタだ。
不謹慎厨のパロディがやりたいのか、作品と現実の区別がつかない人のやりたいのかシンゴジラファンめんどくせえがやりたいのか。あるいは「前半はリアリティが高く没入度は高いが、後半は露骨にネタだとわかる展開でした」だとか「庵野のパロディは本気度が高すぎてネタに見えなかったよね」とやりたかったのか。
その辺りの狙いの焦点がぼやけているため、ネタとして非常に分かりにくいが、とにかくネタだ。
いずれにせよ、マジで書いているなら話の筋が通らないのだから、ネタであることは間違いない。一応書き手としては親切に「映画なんだから」の部分に強調を入れることで「ほら、これはネタですよ」ということを明記しているつもりなのだろう。
何のためにわざわざ「ネタ」形式にしたのかの納得感がない=読者に何を伝えたかったのですか?
ただ、ネタで書いているにしてはネタであることがわかりにくすぎる。
映画を実際に見ていれば書いてることがネタだとわかるが、そうでない人は「ただの頭の悪い人が本気で書いているのでは」と感じてしまう。
なにより問題なのは、この文章「ネタ」だとわかっても不快感が残る。「あーそういうネタかwww」っていう納得感や笑いがない。完全に滑っている。 それは文章の目的として致命的に失敗してるんじゃないだろうか。何のためにわざわざネタ風に描いたのかと。わざわざネタ形式にすることによって何が伝えたかったのか。私にわかるのは「この記事がネタだ」ということだけであり、わざわざ手の込んだネタ形式にして宮田さんが伝えたかったことが何なのかがわからない。
もしこの文章に対する反応が宮田さんの思った通りでないなら、それは宮田さんの文章はPVを稼げたこと以外はネタとして完全に失敗していると思う。
爆笑問題の太田と比べてどれだけネタとしての盛り上げ方がオチのつけ方が下手かを説明しようと思ったがめんどくさいからやめる。
もし文章の書き手が「俺のネタがわからないなんて読者はバカ」って言っちゃうなら、その書き手は一番不要な存在
ないとは信じたいが、もし宮田さんが「ネタで書いたのにわからない人が多いようだ」って思ってるなら、もうそれは書き手としてブルーツーイヤーさんと同レベルだよね。
2ちゃんねるならともかく、ブログで「ネタにマジレスするな」などということを言い出す人はブログ書くのに向いてない。そういう人はネタが通じる内輪向けだけに文章がかけるFacebookやLineでやったほうが良いと思います。
まあ一言でいうと感想は「お前ネタ記事書くの向いてねーわ」です。 私も向いてないので、ネタ記事を書ける人うらやましいです(T T)