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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「公共の場ではお前らの権利はない」「お前たちは隠れていればいい」というメッセージを安易に発信できる人すごいな

「サフラジェット」の奮闘を描いた「未来を花束にして」を見終わった。
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この作品を見て思ったことは、「公共」や「TPO」というものを無条件で信じることの怖さである。

この当時における「公共」や「TPO」においては、女性の権利を
圧殺することが正しく、女性が権利を主張するというのは間違ったことだった。サフラジェットのメンバーであった女性の視点から描かれる男性は、女性にとって理不尽そのものである。


だが、作中に出てくる男たちは悪人ではない。
工場長のように露骨にゴミクズな男もいるが、主人公の夫や、警察官の人たちの存在は、あくまでも兵士として当時の「公共」に従っているだけである。

私は歩兵。あなたもです。
敵と味方ですが、私は裏切らない。あなたもでしょう?

主人公の夫は、妻が「参政権」を求めたりするまでの間は彼なりに家族として妻を大事にしている。しかし、彼女が「女性」という属性のまま「公共の場」に進出しようとした瞬間に「調子に乗るな」とさげすむ。

なぜかというとその「女性は公共にふさわしくない」というのが当時の一般的な感覚だったからだ。

気分屋で平静を欠く女性には、政治判断は向かない。
女性参政権を認めたら、社会構造の崩壊だ。
父や夫の投票権こそ、女性を代弁している。
一度認めれば歯止めが利かなくなり、お次は議員だ裁判官だと際限なく続く。

だから、女性が公共の場に出てこようとしたら「叩き潰してあげるのが彼女たちのためだ」と思っていたのだ。女性たちの権利をつぶすことこそが善意だと思っていて、それがわからない彼女たちは狂人だと決めつけて迫害した。
ただのトートロジーだし、引用部分の主張はまったく根拠がない。でも、当時の人はこの馬鹿げた話を根拠のある話だと思っていたのだ。

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しかし、最初は女性のことを思ってそういう仕組みにしたのかもしれないが、結果としては、「参政権を与えず、公共の場で意見を表明することすら許さないことが正しい」という扱いを続けた結果、男の女性に対する扱いはどんどん理不尽になっていった。映画中で描かれる「洗濯女」の扱いは本当に悲惨である。

「洗濯女は短命です」
「なぜだね?」
「体は痛み、セキがひどく、指は曲がり、脚は潰瘍にヤケド。ガスで頭痛持ち
 去年肺をやられて辞めた子も。」
「賃金は?」
「週13シリング=0.65ポンド(我々の感覚だと1.5万円程度)です。
 男は19シリングで、労働時間は3割短い。それに配達中心で外へ行ける。」

そりゃそうなるよね。

「公共の場に出てくるにふさわしくないような存在」とされたものは立場が非常に弱い。欠席裁判のようなもので、議論の場に出てくることさえ許されない者の存在は忘れ去られ、ぞんざいになっていき、みんなが関心を持たないところですりつぶされていく。「たとえ批判されようとも、公共の場に出て意見を述べたり表現をすること自体は許されている」ことは非常に重要である。


当時の男性たちはそのことが分かっていなかったから、女性から権利を取り上げていた。サフラジェットたちは、そういう男たちの「公共は男が担い、女たちを公共から追い出すことこそが正義」という態度に対して「それは違うよ!」「異議あり!」という気持ちを訴えるために過激な行動に出たわけだ。 


そういう経緯を丁寧に描いていていい作品だと思うので、プライム会員の人はぜひ見てほしい。



何が言いたいかというと、ネットにおいて公共というものを信じ切って、TPOを弁えろとのたまう人たちは、その公共ってほんとに無条件で信じられるものなんですかってことだ。

特に後者は、その場が狂っていたら容赦なく人を殺しうると思うのだが。今でも女性がメガネをかけるのはふさわしくないという場が話題になってたよね。


「公共」を根拠に誰かの存在を批判するのであればその「公共」というものの正気を示さねばならない

「狂ってるよ 貴様ら」
「ふうん 君らが狂気を口にするかね?第13課局長」
「ああそうだ おまえ達はまともじゃない」
「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保証してくれるというわけだ 
よろしい ならばよろしい ならば私も問おう 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」 (「ヘルシング」4巻)

HELLSING(4) (ヤングキングコミックス)

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さて、個々人が「公共の場でこういうものを見たくない」と思うのは勝手だし、気に入らないものを批判するのは自由である。
だが、「存在そのものが公共の場にふさわしくない」という扱いをされるのは「暴対法」レベルの扱いである。

それほどの厳しい扱いを要求し、ましてそれを「正義」だとのたまうのであれば

①「公共」というもの公正さを厳しく問る(間違っても特定の個人の感覚とか恣意的な判断であってはならぬ)
②その対象を公共から締め出すに足る根拠を述べる(間違っても特定の個人の感覚とか恣意的な判断であってはならぬ)

のは当然ではないだろうか。 

そうでないなら、ただの権力闘争の結果でしかなく、パワーバランスが崩れればいつでもひっくり返る程度のあいまいなものでしかない。
「〇〇は弱い立場の存在だから」という理由だけで公共から締め出してきて、それを公共から締め出す正当な根拠を構築できてなかったのであれば、〇〇の立場が強くなったら締め出せなくなるのは当たり前だよな?

「これは正義であるから数の問題に限らず守られねばならぬ」と言いたいのであれば、まさに群れて数の力で殴る暴力に頼ることなく、誠実にそれを示す必要があるだろう。


「自分をマジョリティと位置付けている」「自分の感覚こそが公共である」と無自覚に思っている人たちが怖い

宇崎ちゃんも一応しておくと、すでにさんざん記事を書いた通りで、私はオタクではあるが個人的に「あれはちょっとなぁ……」と抵抗を感じるし、あれが嫌いな人がいたり、批判する人がいるのはまぁそりゃまぁ当然だろうなと思う。問題が全くないとか全く思ってない。というか今回の件に関しては割とオタクに対して否定的な立場だ。

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だが、私は「自分の考え=公共」だとは思ってない。そんな傲慢な発想はない。

批判が届き、作者や赤十字がそれを了承した上で別に性差別だと認識してないという表明をした時点で終わりであり、
それでもなお「公共にふさわしくないからNG」と言い続けてる人は、うんうんそれもまた「公共」に関する議論だよね、好きにしたらいいよ、とは思う。


とはいえ、北守氏はさすがにひどいなって思た。この人本当にこんなんで人にものを教える仕事できるんか?

公共の場における女性表象のセクシズムについては、すでに30年以上前から問題化されている。そして、女性性を安易なアイキャッチとして利用したり、ステレオタイプ的な表現だったりといった、女性を客体化する表象は批判にさらされ、次第に減少してきたという歴史がある。
この文脈の中に位置づけるならば、件のポスターは確かにアウトとならざるをえない。

https://hbol.jp/205032

北守氏にとっては「あのポスターはアウトとならざるを得ない」という文脈のようだが、
北守氏の考える公共あくまで「お前の頭の中ではな」でしかなかったということが結果である。

その結果を「否認」してわめき続けている人がいるから、この話が長引いているだけだ。
北守のように「公共」=「自分の感覚と全く一致するもの」と思いたがる人はほかにもいるのだろうが、そんなに気軽に「公共」ってワードをポンポン持ち出す癖に、「表現の自由」ってワードを出すと「表現の自由戦士」って揶揄するんだから、自分をマジョリティだと思ってる人の傲慢さは恐ろしいなと思う。

なお、宇崎ちゃんに関して「議論」などどこにも存在しなかったことは言うまでもない。