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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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十角館の殺人で語られた「重要なのは筋書きではない。枠組なのだ」という言葉がすごく好き

重要なのは筋書きではない。枠組なのだ

コミック版「十角館の殺人」が完結した。
原作が好きな人にはたまらないコミカライズだと思うので超おすすめです。

原作は1987年の作品。

「そして誰もいなくなった」をモチーフとするだけでなく
登場人物たちの名前がミスリーディングになっているトリック小説であり
そのあとの日本ミステリーに多大な影響を与えたとされている。

「うみねこのなく頃に」がこの作品をオマージュしたというのはよく言われているが
実際のうみねこは「十角館と水車館と迷路館と時計館と暗黒館」すべてからネタを持ってきているのでどれか一つというわけではないらしい(暗黒館と十角館しか読んでないから知らない)
少なくとも私は「うみねこ」の方を先に読んだので、この作品が何かのパクリだとかは一切感じなくて読めたので幸せだった。
まぁうみねこと綾辻作品の関連は本題ではないのでこの辺りで。


「重要なのは筋書きではない、枠組なのだ」という言葉がめちゃくちゃ好き

しかしながら彼は、己の立てた計画が万全のものであるなどとは少しも考えていなかった。綿密な、と形容するよりもむしろ、ある意味でそれは非常に杜撰なものでさえあると思う。が、もとより彼には、計画を細部に至るまで完璧に組み立てておこうというつもりもなかった。どうあがいてみたところで所詮人は人、神にはなれない。神たらんと欲することはたやすいが、実際にそうあることは、人が人である限り、いかなる天才にも不可能だと分っている。神ならぬ者に、では一体、未来の現実を――それを構成する人間の心理を、行動を、あるいは偶然を――完全に計算し、予想し尽くすことができようか。〔略〕

固定的であることは避けねばならない。重要なのは筋書ではない、枠組なのだ。その中で、時々の状況に応じて常に最適の対処が可能であるような、柔軟な枠組。事の成否は、あとは己の知力と機転、そして何よりも運にかかっている。

私は漫画版を読むまで真犯人以外トリックとかすべて忘れてたのにこの言葉だけは覚えていたくらいに好きだ。

最終5巻でこの言葉がちゃんと目立つ形で描かれていてうれしかった。

一般的にはこの言葉は「固定的に考えてはいけない」「柔軟さが必要だ」という感じで使われる言葉だと思うが私はこの言葉は「よくできたストーリー」を見たときにその裏側を考えることが必要だという意味で学びとなった。

私はこの言葉が好きなので、よかったらみんなにも知っておいてほしいと思っただけの記事です。終わり。




おまけ インターネットではいろんな話を見かけるが「枠組」がついてきていない「筋書き」だけの話は信じないようにしている

わかりやすいのが陰謀論。特に反ワクチンの方々のほか、れいわ新撰組だとか参政党の方々の言ってるようなことは構造が弱い。
場当たり的に口当たりのいいことを言って、それをパッチワークしてるだけの人からは非常にもろい。そういう構造物は、数十万人を担げても国を担ぐことはできない。政治でなければいいが、そういう連中が「政治」や「社会」を語るならただのインチキである。私はそういうものについては「信じる信じない以前」の問題と考えるべきだと思っている。枠組みがしっかりしていたら絶対に信じてもよいかというとそうではないが無理のある話は、枠組みを作ることしかできないので、足切りにはとても重要だろう。


逆に言うと、構造が存在すれば、たとえ筋書きの方が悪くても侮ってはいけないと感じる。
例えば今回のひろゆきの沖縄騒動はひろゆき自身の「筋書き」は非常に稚拙なものであったが彼は軽い気持ちで重要な「構造」に触れた。

そのバックに「崩れ行くファルムアズラ」ならぬ「持続困難ゆえに過激化している終わりゆく左翼イズム」という構造が存在する。もっと言えば「歴代の日本政府による不誠実な対応や安倍さんによるガバナンスの崩壊」による日本政府への強烈な不信感という問題もある。

「逆転検事2」がこの上なく見事に描き切った構造である。
www.tyoshiki.com

このあたりについていつものノリでひろゆきに乗っかってはいけないと思ったから、明確に今回のひろゆきには「NO」という意思を示すことが重要だと思った。

なぜかヨッピーさんが「よくわかんないけど暴力は絶対にいけないと思います」みたいな話をしてしゃしゃり出てるけど、いじめとかを受けて自殺した人に対して「自殺は絶対によくないと思います」っていうくらい意味のないことを言ってると思う。

彼らが一般人から見たら狂人であるのは当たり前

私は彼らの行動にいて、シベリア抑留から帰還した後に日本という国が彼らに大した冷たい仕打ちに絶望を味わった石原吉郎の詩だとか「るろうに剣心、ゴールデンカムイやパンプキンシザース」などで描かれたような不都合な存在、いないものとして扱われるくらいなら賊軍としてでも己の存在をアピールしようとした人達を思い出す。このあたりは夏目漱石の評論文に語られている。

www.tyoshiki.com

およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。(江藤淳「漱石像をめぐって」)

仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。……
……他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。

こういう感情を無視して語ったところで相手を怒らせるだけで何も得るものはない。


※ちなみに擁護しているわけではない。
私はトーンポリシング肯定派だというのは何度も言ってる。
ただそういうものは「減点」されるべきだという考え方なだけだ。「減点」を覚悟でやってる人にまでとやかく言うつもりはない。「減点された上でその上でも叫びたい」というやつのためにも、トーンポリシングを主張して「減点するなと喚き散らす」この世で最も有害な愚か者がこの世から消えるべきだと思っているだけだ。