別に悪いわけじゃないけれど、少なくとも司くんを他の先生に求めるのは個人的にはちょっとなーって感じる。
まあほとんどの人はあくまで冗談で言ってると思うが、司先生と比較してなにかを貶すようなことが始まったらアウトだろう。
そういうのは「暗殺教室」の殺先生が現実にいてほしいなーっていいだすのと同じだ。
つまりフィクションと現実の区別がついてないっていわれても文句が言えない。
もっと問題なのは「どのようにしてこのキャラクターができあがったのか」という過程を考慮せずにキャラクターを評価する態度だ。
これはクールジャパン戦略をおしすすめる政治家のごとき短絡さではないか。
私にとっては司くんは(良くも悪くも)異常性が際立つ存在である。3つの点でとくに異常性を感じる
司くんが謙虚なのは、「チャンスに絶望的に恵まれなかった」「誰にも求められなかった」「常にこれがラストチャンス」というギリギリの生き方をしていたからだよね
まず現役時代から異常だった。
「認められず、自己の価値を否定され続けた」上で、しかも貧困の中でも折れずに努力し続けた。
なにがそこまでこの人を突き動かすのか…というくらいにストイックな人間だった。
司くんは自分が特殊な才能をもっていることをちゃんと自覚していたことがわかるが、それでもジャンプが飛べるわけではない。
にも関わらずギリギリまで夢を諦めなかった。この時点でまず普通のひととは違いすぎる異常者である。
そんな人間が、いのりを見てここまで執着した夢を放棄したのだ。この決断の極端さがまた異常だ。
そう、司くんにとって、自分を重ね合わせて、夢を託したいという祈りそのものが具現化した存在が「いのり」なのだ。
そこにどれほどの貪欲な希望・願望・欲望が詰まっているかは想像に固くない。
そのうえで、司くんは自分のモンスターじみた欲望をよく知っているから、その欲望を理性で全力で抑えつけている。
これがまた司くんの異常なところである。そんなことがフィクションでない人間にできるのだろうか?
司先生の聖人ぶりは「最凶教育虐待親」クラスの貪欲さと、その欲望を強烈に押さえつける理性の相克に寄って成り立っている。
「自分といのりは別人格であり、いのりは自分とは違う人間として尊重されねばならない」という制約を設けることに寄って司先生は自分の欲望を抑えること無く、全力でいのりを導くという情熱をいかんなく発揮している。
「こいつクルタ族か?」「エンペラータイム使えます?」って思うくらいに尖ったキャラだと思うのだ。
このように、司くんは「異常な要素がせめぎ合って」、「いのりにとってはとんでもなく有能な指導者」になっている。
理凰くんにとってもいい先生じゃないかと言われそうが、これは「アイスダンス」や「ヨダカジュン」要素を活かしたこれまた特殊事例である。
むしろ理凰くんに対する教育姿勢は押しが強すぎて「結果としては良かったが、基本的にはやばい先生ぶりがもろに出ている」描写だったと私は思ってる。
異常だから悪いと言いたいわけじゃない。
「メダリスト」は司の異常さといのりの異常という異質な者同士の出会いが生み出した物語であり
この二人があまりに相性が良くてがっちりかみあわさった結果起きている「奇跡」を見守るマンガだということが言いたい。
天才同士が交わることに寄る化学反応を描いた作品は「昴」や「Moon」だとかいろんな物語で描かれているはずだが
その中でもこの作品は特に「奇跡」を描くことにこだわっている作品だと思う。
少なくとも私はそういう風にこの作品を受け止めているので
「奇跡」の産物をみて「これが令和の先生像だ!」みたいにすぐ一般化しようとする人とはちょっと絶望的に感性が合わないなと思った。
とはいえ、司の異常性が際立ってくるのはアニメ放送以降の部分であるから、アニメ放送以降の原作部分をぜひ読んで欲しい。
特に5巻の地区ブロック編はめちゃくちゃ熱いぞ!
私は5巻~7巻のあたりの描写が本当に大好きだ。