議論の目的が、自らの主張の正しさを伝え、相手や読者の理解や納得、さらには行動変容を促すことにあるとすれば、その文章には「説得力」が不可欠である。しかし、私たちは往々にして、強い信念や感情に駆られるあまり、説得力とは程遠い、一方的な断定や論理の飛躍に満ちた文章を書いてしまうことがある。
この記事は主張内容は一旦横に置いといて、書き方でだいぶ損をしているなと思った。
老人介護の価値を擁護するという趣旨自体は理解できるものの
その論理展開や表現方法に多くの問題を抱えており、
説得力ある議論のあり方を考える上で、格好の反面教師となるだろう。
というわけで
この記事を題材にして
・文章の説得力がどのような要素によって損なわれるのか
・どうすれば多少マシにしたり、説得力を向上させることができるのか
を考えてみる。
例によって文章が長いので、音声による要約もどうぞ。
- 1. 今回の記事は議論の土台を固めずに語りだす人にありがちな三種の神器( 言葉の定義がなし。前提がだいたい乱暴な一般化。そして破綻した三段論法)をコンプしている
- 2. 主語デカ・・・というか安易な国民性への還元が問題
- 3.説明不足な人ほどなぜか強い言葉を使いがち
- 4. 冒頭の議論の作法を無視したレッテル貼りもひどい
- こういう記事を書く人はどうすれば良いか
- 実際に書き直してもらった例
- AIに任せないで書きたい人は、問題点や改善点だけ指摘してもらって、自分で書き直すと良い
1. 今回の記事は議論の土台を固めずに語りだす人にありがちな三種の神器( 言葉の定義がなし。前提がだいたい乱暴な一般化。そして破綻した三段論法)をコンプしている
まず、元記事の中核的な主張の一つである以下の部分を見てみよう。
そもそも『生産性がある仕事』って何か。
それはサービス業だ。
当たり前。
だから先進国はみんなサービス業中心の経済に移行する。
老人介護はサービス業だ。
生産性がないわけがない。
この部分は、一見すると明快な論理に見えるが、説得力ある議論の基礎を著しく欠いている。その問題点は、大きく三つに分解できる。
1️⃣第一に、議論の核となる「生産性」という言葉の定義が全く示されていないこと。
経済学において「生産性」は、
一般に「産出量(Output)/投入量(Input)」で示される効率性の指標である。
代表的なものに、労働者一人当たり、あるいは一時間当たりの付加価値を示す「労働生産性」や、
労働や資本といった全ての生産要素の投入量を考慮した「全要素生産性(TFP)」などがある。
筆者がどの「生産性」を念頭に置いているのかを明示しないまま議論を進めることは、
読者との間に共通の土俵を築くことを放棄するに等しい。
これでは、単に言葉のイメージだけが先行し、建設的な議論にはつながらない。
2️⃣第二に、「生産性がある仕事はサービス業だ。当たり前。」
著者の前提が、あまりに乱暴な一般化である点だ。
現実には、サービス業と一括りにされる産業の中でも、生産性には天と地ほどの差がある。
例えば、情報通信業や金融・保険業は
少ない労働投入で巨大な付加価値を生み出す高生産性分野の代表格である。
一方で、元記事が主題とする介護サービスや、宿泊・飲食サービス業などは
労働集約的な性質上、労働生産性が上がりにくい「低生産性分野」として長年指摘されてきた。
日本生産性本部の調査などを見ても、
サービス産業全体の生産性向上は長年の課題であり、業種間の格差は大きい。
このように、無数の反例が存在するにもかかわらず
自らの主張に都合の良い部分だけを切り取り、「当たり前」と断じる態度は
事実に基づいた誠実な議論の姿勢とは言えない。
3️⃣第三に、以上の二つの問題点の結果として、この部分で展開されている三段論法が完全に破綻していること
上の記述の構造は以下のようになっている。
・大前提:生産性がある仕事は、サービス業である。(誤った一般化)
・小前提:老人介護は、サービス業である。(事実)
・結論:したがって、老人介護は生産性がないわけがない。(論理的飛躍)
この推論は、
「哺乳類は、動物である。
猫は、動物である。
故に、猫は哺乳類である」というような
一見正しそうに見えて論理的には誤っている「媒概念不周延の虚偽」と似た構造的欠陥を抱えている。
そもそも大前提が「全てのサービス業は生産性が高い」という誤った命題であるため
そこから導かれる結論に説得力は生まれようがない。
このように、
議論の核心をなす単語の定義を怠り、
反例が容易に見つかる主張を「自明の理」として提示し、
その上で破綻した論理で結論を導き出す。
こうした手法は、読者に知的な不信感を抱かせ、文章全体の説得力を根底から崩してしまう典型的な悪手である。
2. 主語デカ・・・というか安易な国民性への還元が問題
次に、元記事が「なぜ老人介護に生産性がないと(一部で)思われるのか」という問いに対して示す答えを見てみよう。
じゃあなぜ日本人は老人介護に生産性がないと思い込むのか。
日本人は根本的に物質主義だからだ。
カネよりモノの方が本質的な価値があると思ってる。
『生産』という言葉を、『物販』の意味でしか考えられない。
ここでの問題は、複雑な社会現象の原因を証明困難な「国民性」という単一の要因に還元してしまっている点にある。
これはてブ民ではしょっちゅうやらかす人いるけどマジで不毛なのでやめていただきたい。
1️⃣まず、「日本人」という主語の使い方が極めて雑である。
1億2千万人を超える人々が、あたかも単一の思考回路を持つかのように
「根本的に物質主義だ」と断定することは、思考の怠慢以外の何物でもない。
世代、地域、教育、価値観など、人々を構成する要素は無数にあり、
多様な考え方が存在するのが当然だ。
このような大きな主語による一般化は、ステレオタイプを強化するだけで、本質的な分析からはほど遠い。
2️⃣さらに重大なのは
「老人介護に生産性がないと見なされがち」という現象と
「日本人は物質主義」という主張の間に、論理的な因果関係が全く示されていないことだ。
仮に、多くの日本人が物質主義的であったとしても、
それがなぜ直接的に「介護=非生産的」という認識につながるのか。そのメカニズムは一切説明されない。
現実には、介護の生産性が低いと見なされる背景には、より具体的で複合的な要因が存在する。
・経済構造上の要因:介護サービスの価格の大部分は公的な介護報酬によって定められている。
これはサービスの価格を安定させる一方で、事業者が自由に付加価値を価格に転嫁しにくく
結果として利益や賃金が抑制され、「儲からない=生産性が低い」というイメージにつながっている。
・労働集約的な産業特性:人の手によるケアが中心であるため、
製造業のように機械化・自動化による抜本的な効率化が難しい。
テクノロジーの導入も進みつつあるが、その効果はまだ限定的である。
・歴史的・社会的背景:かつて介護が家庭内の女性による無償労働(シャドウ・ワーク)と見なされてきた歴史があり
その労働の価値が社会的に正当に評価されてこなかったという側面も無視できない。
これらの複雑な要因を全て無視し
「日本人の精神性の問題だ」と結論づけるのは、あまりに安直な責任転嫁であり、
問題解決に向けた具体的な示唆を何も生まない。
説得力のある議論は、複雑な事象をありのままに捉え、
その多面的な要因を一つ一つ丁寧に解き明かそうと試みる。
安易な一般化と原因の飛躍は、その対極にある姿勢と言えるだろう。
3.説明不足な人ほどなぜか強い言葉を使いがち
元記事は、さらに議論を過激化させていく。
これがバカだし、むしろ今時の倫理観で言えば持続可能性もなく悪い考え方だ。持続可能な経済とは、モノよりヒトに金を払う社会のことだ。(中略)形のないものに払うカネが最も持続可能だ。無駄なリソースの消費がないんだから。
この部分には、二つの大きな問題が内在する。
一つは主張における説明不足、もう一つは感情的な言葉遣いがもたらす弊害である。
まず、「モノよりヒト(サービス)に金を払う社会が持続可能だ」という主張自体は、完全に的外れというわけではない。
脱炭素化やサーキュラーエコノミーを目指す現代において、
有限な資源を大量に消費する物質的な豊かさから、
知識、経験、ケアといった非物質的な価値へと経済の軸足を移していくべきだという議論は、実際に存在する。
1️⃣しかし、元記事の説明はあまりに一面的で浅薄だ。
「無駄なリソースの消費がないんだから」と断言するが、これは誤りである。
例えば、現代のサービス経済を支えるITサービスは
膨大な電力を消費するデータセンターなしには成立しない。
金融サービスやコンサルティングも、
高度な教育を受け、専門知識を蓄積した「人的資本」という極めて重要なリソースを大量に投入している。
介護サービスとて、
施設や設備、医療機器、そして何よりケアを担う人々の心身のエネルギーというリソースを消費している。
サービス経済が「リソースフリー」であるかのような語り口は、読者の誤解を招き、主張の信頼性を損なう。
2️⃣そして、こうした説明不足を補うどころか、議論の質をさらに貶めているのが
「これがバカだし」という罵倒の言葉である。
自らの主張に論理的な穴があるにもかかわらず、反対意見を持つであろう人々を
「バカ」と切り捨てる態度は、建設的な議論の放棄宣言に他ならない。
このような攻撃的な言葉は、百害あって一利なしだ。
まず、読者に不快感や反発心を与え、
たとえ主張に正しい部分があったとしても、素直に耳を傾ける気を失わせる。
次に、書き手自身の知性や品位に対する疑念を抱かせる。
「論理で説得できないから、感情的な言葉で威圧しようとしているのではないか」と見なされれば
その文章が持つ説得力はゼロに等しくなる。
説明不足と感情的な罵倒は、互いを補い合うかのようにして、
文章全体を独善的で信頼できないものだという印象を強くするだけだ。
せめてどっちかにしてほしいのだが、大体の場合この2つはセットになっている。
因果関係は語れないが、経験則として説明不足の文章を書く人間はなぜか態度も悪いことが非常に多い。
4. 冒頭の議論の作法を無視したレッテル貼りもひどい
元記事は、そもそもその書き出しからして、説得力ある議論の作法を踏み外している。
音喜多駿が老人介護に生産性がないと言って倫理的な観点から批判されてるけど、そもそも『生産性』の定義を間違えており、こういう純粋な馬鹿が経済派ぶってるのが日本が没落した原因なんだよな。
この冒頭の一文は、議論の出発点として最悪の部類に入る。
1️⃣第一に、批判の対象である音喜多氏の発言を、
どのような文脈で、どのような意図でなされたものかを一切検証せずに、「定義を間違えている」と一方的に断罪している。
彼が経済指標としての「労働生産性」の低さを指摘したのか、
それとも介護の社会的価値そのものを否定したのか、
その違いを精査することなく批判を始めることはできない。
これは「藁人形論法(ストローマン)」の典型であり、
相手の主張を意図的に歪曲・単純化して攻撃する不誠実な手法だ。
はてブ民は呼吸のようにこれをやるが、読解力に致命的な問題があると感じる。
2️⃣第二に、「純粋な馬鹿」「日本が没落した原因」という言葉づかい。
これはもはや議論ではなく、単なる人格攻撃とレッテル貼りである。
日本の長期的な経済停滞という、極めて複雑で多岐にわたる要因が絡み合った社会現象を
一個人の資質に還元するなど、健全な知性が許す暴論ではない。
このような書き出しは、読者を「筆者に同意する賢い我々」と「批判される愚かな敵」へと分断する効果しか持たない。
異なる意見を持つ者との対話や相互理解を拒絶し、
内輪の共感だけで満足する閉鎖的な空間を作り出す。
説得力のある文章が、読者の視野を広げ、新たな気づきを与えるものであるとすれば
このような文章はその正反対の機能しか果たさない。
こういう記事を書く人はどうすれば良いか
今まではこういう時にお手本を出すことが難しかった。
だから、遠回りでも論理力のトレーニングをしようとしか言えなかった。
でも、これからは違う。 生成AIを活用すれば文章を書き慣れてない人でもかける。
むしろ下手に書き慣れてない人のほうが生成AIの活用に抵抗がないだろうから良いまである(私はその点においてはかなり不利)。
具体的には以下の4点を実施するだけでかなり良くなる。