わかりやすさの奴隷にならないために - カキツバタ の続き。
「わかったつもり」から抜け出すための手順。
前回と違って主観が入っていて読みにくいですがご了承ください。
前の記事でも書きましたが、この本は、ワークブックです。
まとめだけならp208からの4ページに載ってますが、実際に読んで見て欲しいなーと思います。
出発点=自分は現在おそらく「わかったつもり」に絡め取られているだろう、という認識
この認識を持てなければなにも始まりません。多分ここが一番難しい。
読んだ文章について、意識的に自分なりのまとめをしてみる
そのまとめが、あまりに簡単なものであった場合には、私達は「ステレオタイプのスキーマによる魔物」か、「文章構成から誘われやすい魔物」に、絡め取られている可能性があります。これら各種の「魔物」によって作られた「わかったつもり」は、大雑把な文脈を用いて、文章の各部分から大雑把な意味を引き出し、全体として整合性がとれている状態です。大雑把な文脈を使っているがゆえに、部分が細かく読めていない状態に陥っているのです。
①「まとめ」が自らの慣れ親しんでいる「ステレオタイプのスキーマ」と同一であれう場合は、それを当てはめているのではないかと、自分の「読み」を疑ってください。文章それ自体をあまり重要視せずに、「内容は、ああ、あれだな」という感じがする場合は要注意です。
②また、文章に沿って読んでいるつもりなのだけれど、「まとめ」があまりにも簡単な場合は、文章構成にミスリードされた各種の「魔物」に絡め取られていることを疑ったほうが良いでしょう。 例えば文章の中に出てきた各種の事例や出来事が、個別の特徴をともなって思い出せないときは、面倒になって適当に処理している自分に気づくことが少なく無いと思います。そして、そのような場合には、事例やできごとに関して個別の特徴を浮き出させることが必要になってきます。事例に関しては、「なぜそれが事例になるのか」という文脈や、「他の事例とどこが同じでどこが異なっているのか」という文脈で、それぞれの部分を見直すことが大事です。
③文章を読んで概略や解釈を述べるときに、「あたりさわりのないキレイゴト」が出てきたら要注意なのです。その時は、それが本当に文章の当該部分に適用できるのかと疑い、記述にあたってみてください。論の運びの上で大きな隙間のあるところを、「当り障りのないスキーマ」を使って、自分でかってに埋めていないでしょうか。
「部分」に焦点が当たるような新たな文脈を考え、交換していく
「文脈の交換」によって、文章中から新たな意味が引き出されてきます。この交換によってその時時における「わかったつもり」を壊しながら、読みが進展していきます。
たいていは、文脈を交換しながら丹念に読むことによって最初の「わかったつもり」を壊すと、次にはあらたな矛盾や、無関連による「わからない」状態が待っています。このような矛盾や無関連は、次の「よりよくわかる」ための契機となるものです。 ただ、あくまでもそれらは景気であって、「矛盾」や「無関連」によって生じている「わからない」状態を克服しなければ、「よりよくわかった」状態にはなれません。
こうして一度「わからない」状態に戻ることに耐えて、試行錯誤しながら新しい関連付けを繰り返し行うのが「よりよくわかった」状態への道筋です。
「よりわかる」は終わりなき探求。だから読む度に新しい発見の喜びもある。一度読んで「わかったつもり」で終わるのはもったいない
文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私達にはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私達には、私達が気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは「見えていない」とも思わないのです。この意味においても、探求は果てしないものであると考えて、できるだけ開かれた姿勢を保っておきたい。
「読み」の先にある「解釈」の世界について
文章にかかれていることだけを読むだけでも、かなり大変です。しかしさらに、文中に直接書かれていない「客観的な事実についての知識」や「想定」「整合性」などのさまざまな手法によって文章をより深く楽しむことができます。此処から先が「解釈」の世界です。
最近再び「精読」「スローリーディング」に脚光があたってきていると思いますが、時々こういう読み方をしてみたいなと思います。
学校では、そうやって、本をしっかり読んで深く理解したほうがほうが適当に読むより楽しいし、その土台の上に、自由な解釈を話し合う場があると、生徒からしても面白いんじゃないか、そうやって読むことの楽しみを教えていければいいのにな、といつも妄想してます。
「解釈」はかなり自由であり、「正しさ」ではなく、整合性によって妥当性を判断されるのみ
自らの解釈の正しさを信じたり、ただしさを強調することは、他の解釈を排除することにつながりかねません。解釈が妥当であるかどうかを「正しさ」にもとめるのではなくて、周辺の記述や他の部分の記述との「整合性」にだけ求めたい、というのが私の考えです。
文章は、整合的であるかぎりにおいて、複数の想像・仮定、すなわち「解釈」を認めることになります。間違っていない限り、また間違いがあらわになるまで、その解釈は保持されて良いのです。ある解釈が整合性を示しているからといって、それが唯一正しい解釈と考えることはできないのです。しかし、ある解釈が周辺の記述や他の部分の記述と不整合である場合には、その解釈は放棄されなければなりません。そのような制約条件はあるものの、そのもとで想像力をたくましくして、部分感の緊密性を高める想像・仮定を構築しては壊し、また構築していく。これが「より良く読む」という過程の内実であるべきではないでしょうか。
私は「AngelBeats!」や「まどか☆マギカ」において、各話ごとにいろんな解釈をしたり推測をしたりしました。
結末まで見た後だと、バカバカしいものもたくさんあります。でも、そういうのってすごく楽しいのですよね。
自分の「解釈」をいろんな人と比較・共有する読書会は楽しい
また、完結した作品についても、
各登場人物や、各場面における心理や、作品全体についての位置づけなどをどう読み取るかは結構自由度が高いです。
各人ごとの解釈を持ち寄って、それを比べ合ったり、影響しあって新しい解釈を得るのはとても楽しい経験です
何度か読書会をやってみたことが有りますが、今後も機会があればどんどんやっていきたいと思います。
余談。
「出発点」の話が一番難しいと書きましたが、実際ここに立つには「自己肯定」は大いに関係してくると思います。一つ前の記事で書いている「インチキ自己肯定」状態だと、まずこの認識を持つことができないし、かといって、自己肯定が低すぎると「わかったつもり」から先に進む意思を持ちにくい。意識して「よりわかる」体験を増やしていくことも、自己肯定につながるかもしれません…というのは適当すぎるかな。