(もちろん全部魚拓取ってますけど)
以前とある人からこういうことを書かれたりしたんですが。
"自分の発言に責任が持てない" から発言に責任を負うことになる名前を定期的に変えリセットしようとするし、
日常的にツイ消しするのが当たり前になる。
一貫性が保つのが重すぎて耐えきれないから本来ネット上の人格を定義づけるHNもあっさり変えられる。
そして自身には一貫性なんてものがまるで無いにも関わらず、それを他者に迫るブーメラン行為の数々もこれで説明がつく。
そのうち↑のブログもろとも全て削除するのではないか。
(引用元 ttp://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2016/09/12/210000の魚拓)
これだけ偉そうなことを言っておきながら
べるんさんは2回Twitterアカウント名を変えたあげく鍵垢に閉じこもってますね?
下でも述べてますけど、他人の悪口を書いてたブログを丸ごと消したのはあなたの方ですよね。
つまり ↑ で書いてた内容は自己紹介だったってことでいいですかね?
自分に都合が悪くなったら「全てを無かったことにしようとする」気質の持ち主なのは状況的に明らかでしょう。
だからこそ"あの"増田に入り浸っているのでしょうし、
日常的なツイ消し、記事消し、ハンドルネームの頻繁な変更、そして手に負えなくなったらトンズラしてしまう。
消せばどうとでもなる、消せば書いた責任が消える、消せば過去が消えるとでも思っているのかもしれませんが、もちろんそんなことはありえません。
この人の
・無根拠なヤジ、
・立証責任を追わず逃げ出した事実、
・読解力は皆無でまともに文章を読み込めないこと、
・ひいてはこちらを馬鹿にしていたにも関わらずそれら主張の全てを削除するみっともなさは依然として残ります。
・あんなにも自信満々だった反論(?)の数々は何処に行ってしまったのでしょうか? あれは噓だったのでしょうか?
・私にあれ程の啖呵を切ってオチがこれとか恥ずかしくないのかな。・あるいはようやく自身が行ってきたことに目を向けられるようになり、羞恥のあまり証拠隠滅を図ったのかもしれませんが、
それならいっそのこと全てのIDもろとも消せば多くの人が喜びますよ。
(引用元 ttp://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2017/01/18/070000の魚拓)
※ちなみに、私は記事消したわけではないのでこの人の事実誤認なのですが、それを指摘しても彼が記事を訂正することはありませんでした。
この人は基本的に運営から怒られない限り、一切誤りを認めず、逆にこちらへの攻撃に転嫁するような感じでしたね。
べるんさん(「猫箱ただひとつ」ブログ)自分で他人をけなす時に使ってた行動を全部自分で実行してしまう
えーと。
普通これだけ言ってたら、じゃあこの人は
1:ツイ消しもしないし
2:記事も消さないし
3:ハンドルネームも変更しないし
4:ブログ消してトンズラもしない
のかな? と思うじゃないですか。常識的に考えて。
でも実際は
1:べるんさんは頻繁にツイ消しをするし
2:べるんさんは記事も時々消すし
3:べるんさんはTwitterのハンドルネームも変更したり鍵垢にしたりする
わけですよ。
さらにいうと、この人
・私以外に対しても裏ブログで他人への悪口を書きまくり、
・レビューと称して人の記事にマウントしまくっていたり
・さらに私が発達障害であることをバカにしてきたりしてきたわけですが。
http://sessions.hatenablog.com/
http://bern-kastel.hatenablog.com/
http://bern-kastel.hatenablog.com/entry/2015/06/03/053000
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2015/08/21/070000
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2016/09/12/210000
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2017/01/18/070000
全部消してるんだよね。
さすがにドン引きですわ
自分に都合が悪くなったら「全てを無かったことにしようとする」気質の持ち主なのは状況的に明らかでしょう。
あるいはようやく自身が行ってきたことに目を向けられるようになり、羞恥のあまり証拠隠滅を図ったのかもしれませんが
いやあ、ここまで人のことを悪しざまに言っておいて、
記事やブログを消すことをバカにしまくっておいて。
自分が記事どころかブログまで消すんですか。
めちゃくちゃ頑張って4万文字くらい使って私への人格攻撃を一生懸命書いてたのに。
私が運営経由で「この記事は事実誤認がひどいし暴言があまりにひどいから消してください」って連絡した時は運営から指摘された罵倒表現をわざわざ15か所くらい全部修正して再投稿してたのに。
そこまでやって「意地でも消しません」って態度を取ったのに。
それどころか、運営に通報を根に持って嫌がらせのように追記を繰り返ししまくった結果(40回以上追記・修正してましたよね)
一時期tyoshikiって検索したら検索結果2位に来るまで頑張ってたのに。
それなのに!
忘れ去られたころにひっそり消すんですね!?
すごいですね。
私には羞恥心があるから無理ですわ。
羞恥心の概念がないべるんさん基準で評価されても困りますわ。
当時からわかってたけど、べるんさんが私を批判して言ってた言葉って全部ただの自己紹介ですよね
直近でも、なんか私宛じゃないけどすごく人を馬鹿にするような記事(パーソナリティ分析関連)書いてましたけどそれも消してますね。
自分に都合が悪くなったら「全てを無かったことにしようとする」気質の持ち主なのは状況的に明らかでしょう。
この言葉を他人に向かって吐いた直後に記事を消しますか? 普通?
もうこの時点で、「私は自分を客観視する能力が皆無です」って言ってるようなものでしょ。
それとも自分で言ってたこの状態になったんですか?
「あるいはようやく自身が行ってきたことに目を向けられるようになり、羞恥のあまり証拠隠滅を図ったのかもしれません」
中途半端にきれいな記事だけ残そうとするのが浅ましいですね。
べるんさんは、エロゲの解釈で「テキスト主義」を標榜してましたが、そもそもべるんさん自身が「自分の主観と事実の区別をする能力がない」ことに最後まで気づけませんでしたね
私は最初からテキスト主義自体はまったく否定してませんでした。
私が言ってたのは「それを主張するなら、事実と主観を切り分けられるようにならないといけないから努力が必要ですね(べるんさんはめちゃくちゃ主観混じりに読んでるからまだ実践できてませんよね)」って話だけだったんですけど。
「高々と理念を掲げるのは大事だけれど、べるんさん自身が自分の足元をおろそかにしちゃダメだし
せめて自分ができてない状態で、「理想の位置」から他人を見下ろすような記事を書くのはやめたほうがいいのでは」
って言ってたんですけど。
これが全く通じてませんでしたね。
追記
この文章の主張:「作品を語るとき、外在的文脈(作者の背景、時代、業界知識など)に依存するな。作品内の要素だけで考察すべきだ」というものです。
主なポイント:
1️⃣「外在的文脈」(作者の経歴や業界背景など)を使った作品解釈は楽だから流行っているが、それは「作品を語っている」のではなく「文脈を語っている」だけ。
2️⃣本当の考察とは、作品の中身だけ(登場人物、構成、セリフなど=「内在的文脈」)を見て行うべき。
3️⃣作者の意図や外部知識に頼ると、読者の知識量によって考察が左右されるため、純粋な作品理解とは言えない。
4️⃣作品の本質を捉えるためには、自分の知識を可能な限り脇に置き、作品そのものに向き合うべきだ。
✅ 共通点:
どちらも「テキストの自律性」を重視。
「作者の意図」や「外部情報」に依存する読み方を否定。
「作品そのもの」を中心に据える。
❗違いがあるとすれば:
ニュークリティシズムは詩や文学に特化し、形式・構造美にも注目する点。本文章はより広範(アニメ、映画、ノベルゲームなど)に適用され、外部的な批評風潮への怒りや警鐘が強く打ち出されている点が特徴です。ニュークリティシズムの理論が「作品の内在的構造を厳密に分析する」という明確な枠組みを持っているのに対して、話題になっている内容(おそらくポスト批評的アプローチなど)は、定義や理論的根拠が曖昧で、全体としてふんわりとした印象を与える、ということですね。簡潔に言えば、「ちゃんとした理論というより、“なんとなくそういう感じ”の議論」ということです。ニュークリティシズムの知見や用語を無視したまま、独自の(しかし曖昧な)言葉や枠組みで語っていることで、すでに議論され尽くした問題を、理論の洗練を伴わずに再発明しているように見える。先行理論の習得にかかるコストを回避したい書き手側の事情や「脱構築的」な時代の空気に乗って、わざと曖昧にしていると考えられる。
というわけで、本人はめっちゃドヤって語ってるんだけれど中身はただのニュークリティシズムの焼き直しでしかないんですよ。
ただ、わざわざ独自用語を使ってオリジナティが出てる風を装ってただけというか、単に先行研究を学習するコストをケチっただけというか。いや、本人の中ではマジでオリジナリティがある独自の取り組みのつもりだったんだろうけれど。
これってね、勉強ができない人がやるアウトプットにすごいありがちな特徴なんだよね。
青二才さんやべるんさんのように「勉強が苦手で自分が興味あることしか学習しない人」にありがちな「車輪の劣化版再発明」について
なぜ「かじっただけ」で独自展開したがるのか?という現象には、心理学・教育学・認知科学の観点からいくつかの仮説的説明があります。簡潔に言えば、「学習の浅さ × 承認欲求の強さ × 認知バイアス」の交差点にあると言えます。
1. ダニング=クルーガー効果(Dunning–Kruger Effect)
・能力が低い人ほど、自分の能力を過大評価する傾向。
・初学者ほど「一通り見た=理解した」と勘違いしてしまう。
・知識のピークではなく“錯覚の山”にいる段階で、自信だけは満々。
つまり、知らないからこそ、自分が知らないということもわからない。
2. オリジナリティ信仰と承認欲求
・特に日本語圏のWeb・SNS空間では、「既存の枠組みで話す=古い or 他人の受け売り」という空気がある。
・そのため、「オレは自分の言葉で考えてるんだぞ」というポーズを取るために独自用語・造語・言い換えを多用。
・これは権威なき場所での権威付けの一種とも言える。
3. 努力の最小化(コスト回避)
先行理論は難解で、読むのに時間がかかる。しかも読んでも“自分の言葉にならない”という挫折感がある。
だったら「読まずに自分の感覚だけで語った方が早いし気持ちいい」。
これは一種の認知的吝嗇(cognitive miser):脳はなるべく楽をしたがる、という理論とも関係。
4. 空理空論の自己効力感
・薄い内容を難しく言うことで「賢いと錯覚してもらえる」経験をSNSや文章で得てしまうと、それが強化される(強化学習)。
・結果、「内容の深さ」より「雰囲気的な知性」を演出することに価値があると思い込む。
5. インテリ風“演出文化”
・特に評論家気取りや文化系界隈では、「論理の厳密さより語り口の妙」がもてはやされる場面がある。
・そのため「なんとなく知的に見える言葉づかい」が好まれ、それが“語彙の中身の空洞化”を加速させる。
◆ 結論的に言えば:
「勉強をきちんとしていないが、賢く見られたい人」にとって、
独自用語・ふわっとした言い換え・理論なき語りは、もっとも都合のよい手段。
有料部分はこちらで。
yoshikimanga.hatenablog.com