頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

「弱者のための政治」を最も恐れているのは、社会的強者よりも「弱者に隣接しているが弱者と認識されない、余裕がない人たち」だと思う

選挙については、先日読んだ記事で

「立憲民主党のマイノリティや弱者に寄り添うというメッセージは、正しく10%の人から支持されるものであり、実際の結果としてもそうなっている。今回の結果は勝ちでも負けでもなく活動内容に応じた順当な結果だった」と述べられていた。ほえー。


「10%以上の成果を求めるなら、10%に熱烈に支持される状態にとどまらずよりウイングを広げるべきだ」という指摘もあり、これが正しいかどうかはわからんけどなるほどなあと思った。



しかし、選挙後の立憲民主党支持者を見てると、、、

今のままでは無理そうだなと思う。この人たちは選りすぐりの10%の人間でいたいのだろうな。


https://togetter.com/li/1797076



弱者のための政治は「正しいから」行うべきものではない。イデオロギーしか立脚点がない話は危なっかしい

そもそもこの人たちが勘違いしてるなと思うのは、別に弱者は正しい存在でもなんでもなくて、文字通り「立場が弱い人」でしかない。


特に最貧困層は、何回も言うけど「良識的な人間」ほど嫌悪するような連中が多い。

www.tyoshiki.com

www.tyoshiki.com

純粋な被害者と言えるかというと微妙なところもある。かわいそうという一方的な視点を押し付けるのは傲慢であろう。




こういう人たちを助けるべき理由は別のところにある。


社会の安定のために必要なのである。放置しておくと地下経済が広がり、反社勢力が強化され、秩序が崩壊するからやるのである。

また、こういう人たちも社会の生産活動に参加してもらう方が、無視するよりも社会にとってプラスになるからやるのである。

そもそも、公教育というのはそういう観点で導入されるようになったものである。今の世の中では、民衆が衆愚でただ素直にお上のいうことを聞くよりも、(一定数以上の人間が)知識や技術を身に着け、経済活動において活躍してもらった方が国にとって望ましいから公教育をやっているのである。


このように理念と説得的要素が両輪となっているものは強い。


一方で、善意や正義といった曖昧な言葉で語られるイデオロギーはあまりももろい。

特に「弱者のための政治」=「正義」って単純化された思考はめちゃくちゃ危うい。イデオロギーそのものが悪いわけはないが、現実とのすり合わせを行わない単純化・純粋化されたイデオロギーはすぐ先鋭化するので怖い。イデオロギーを護るために現実を捻じ曲げ、自分に賛同しない人をすべて悪魔化し、そして「イデオロギーの勝利」のために暴走してしまう。

そういう連中は、正義でもなんでもない。ただの馬鹿というかやべーやつである。





同じドイツ占領下の国でも、少数民族に寛容だったエストニアでは共産主義者たちによってユダヤ人の99%が殺され、ユダヤ人差別が厳しかったデンマークではユダヤ人の99%が生き延びた

イデオロギーだけで弱者を護れるとおもったら大間違いで、そんなもん「より強大な勢力を持つイデオロギー」とぶつかったらつぶされたあげく、自らの手で守ろうとした弱者を殺す羽目になることだってある。


これは極端な例だが、歴史の中で実際にそういう事例もあるのだ。


どちらもバルト海沿岸の小国だが、両国のユダヤ人の運命は大きく異なっていた。エストニアでは、ドイツ軍がやってきたとき(1941年7月)に居住していたユダヤ人の99%が殺害されたのに対し、デンマークでは市民権をもつユダヤ人の99%が生き延びたのだ。

だがこれは、デンマークが民主的で、エストニアに反ユダヤ主義が跋扈していたからではない。戦前はデンマークの方がユダヤ人に対する差別が厳しく、1935年以降はユダヤ難民を追い出していた。それに対してエストニアは保守的な独裁政権だったがユダヤ人は共和国の平等な市民とされ、オーストリアやドイツからのユダヤ人難民を引き受けてもいたのだ。

https://diamond.jp/articles/tachibana-print/188512?page=3

「イデオロギー」は政治が安定している時には強いけれど、政治そのものが安定していないときにはめちゃくちゃぜい弱だ。

日本が「弱者のための政治」にあまり乗り気ではないのは、それだけみんな貧しいからだ。

経済的な問題以外にも、国というものが信じられなくなっており、疑心暗鬼になってきている。自分自身が弱者の立場に追いやられている。

こういう状況で「(自分は含まない)弱者のための政治」というスローガンは、残念ながらあまり響かないと思う。

「弱者のための政治」を最も恐れているのは、社会的強者よりも「弱者に隣接しているが弱者と認識されない、余裕がない人たち」だと思う。



こういう層たちに対して「弱者を救うことは、あなたたちの生活向上にもつながりますよ」というメッセージ性を出せないようなら、野党に勝ち目はないだろう。むしろ、この層に対して「お前たちは弱者を虐げていたのだから反省して私たちの活動のためにさらに差し出せ」というメッセージまで出している人までいて本当にあほだなと感じる。


政治は正義ごっこのためにあるわけじゃないんだよ。イデオロギーに純化した人というのは、このあたりが本当にダメだと思う。


ガースーが打ち出した「自助共助公助」みたいな流れになればなるほどイデオロギーは脆弱になり弱者に対して不寛容になっていくので、まず大事なのは公助を強化することと国全体を強くすることだと思うんだよね

私は選挙分析できるような賢い人間ではないので自分の話だけします。


投資クラスタからは受けが悪かったが、私は再分配強化は反対ではない。その点において岸田の方がかなり明確に方針転換を打ち出していた。立憲民主党が岸田以上に明確なビジョンを示せていたとは全く思わない。むしろ立憲民主党よりは岸田の方がまだましだという印象があった。少なくとも私が重要だと感じた部分においては明確な差がなかった(岸田さんフラフラしてるからどこまで信用していいかわからんけどね)


私は自民党には投票するつもりがないし、個人的信条から吉村氏がトップにいる限りは維新は絶対に支持しないことにしているので維新にも入れるつもりもなかったが、個人的には立憲民主党に投票するモチベーションは今までで一番低かった。

それでも、私は今回小選挙区は立憲民主党、比例は国民民主党に入れた。あんまり意味なかったね。