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「サクラの刻」長山香奈の話(1):岩崎夏海さんの「ゲームの歴史」は否定されるためにこそ存在する(という妄想)

「ゲームの歴史」は否定されるためにこそ存在する(という妄想)から始めますが、これは「サクラの刻」に登場する長山香奈というキャラクターに関する話です。「サクラの詩」「サクラの刻」を未プレイの人は読まないでください

「ゲームの歴史」は否定されることによって価値を生み出す

www.highriskrevolution.com

私は、「ゲームの歴史」が本物たちによって否定されまくる姿を見て、ハックルさん本人の思惑はどうか知らないけれど、本作の役割をいかんなく発揮していると思っている。

「ゲームの歴史」は否定され踏みにじられ、上書きされることで現れる姿こそが完成形なのだ。

これが、ゲームを愛してるのにゲームというものに愛されなかったハックルさんなりのゲームへの関わり方なのだと思う。

そのように勝手に「解釈」している。



そう思うのは「サクラの刻」というゲームをプレイして「長山香奈」と「本間麗華」という二人のキャラの物語を読んだ直後だから。

私はこの二人がめちゃくちゃ好きなので、これからチマチマと語っていきたい。


「サクラの詩」において、主人公たちがみんなで作った「櫻達の足音」という作品は長山香奈によって穢されて「櫻達の灰色の足音」となり、そのあと上書きされることで再び評価された

元絵を改変したブルバギの作品。
この穢された絵があるからこそ元の美しい絵が引き立つのではないでしょうか?


確かに、穢された絵があるからこそ、この光の作品が際立つ。
最初は落書きにすら見えたものだが、こうやって光で元絵が浮き上がると、まったく違った趣がある

私たちだけでは、あの作品に説得力を持たせることはできなかった。

我々の絵は、彼の絵を引き立たせるための下地でしかありません。
あの日、我々の日常は穢されてしまいました。我々によってこの絵が穢されてしまったように!
だからこそこの美しい風景は意味があるのです。
我々は、この光の作品を生かすために、この絵を描きました!

単体ではただの偽物・まがい物だったかもしれない。ただの落書きだったかもしれない。しかし本物によって否定され、上書きされることではじめて価値が出ることになった。否定されるための下地として本物の一部となることができている。

「ゲームの歴史」も単体では価値を持たないが、徹底的に訂正され上書きされることによって価値が生じている

訂正作業をさせられる側としては迷惑以外の何物でもないだろうが、ハックルさんによって歴史が穢されることにより「本当の歴史」を語ることに今とても意味が生じていることは紛れもない事実である。多くの人が「本当の歴史」を語る本が出たら買いたいと思ってるくらいにはみんなゲームの歴史というものについて興味を持っている。


そもそも、長山香奈はなぜこのようなことをしたか。

もし、君が、作品を目の前にして「重厚」だと思ったり、「高尚」そうだと思ったら、その芸術は死んでいる
もし、君が、その作品を目の前にして作品から息吹を感じたとしたら、その作品を生き返らせたのは、ほかならぬ君だ。
作品は見る人によって、はじめて完成される。いや、更新されるのかもしれません

穢される前の絵が、そしてその作者である草薙直哉が、芸術家として死んでいたからだ。

また、その作品が、その作品を生み出した直哉たちのものとしてではなく別の作者のものとして語られていたことが許せなかった。自分が本物と認めたものが正当に評価されていないことに苛立っていた。

彼女は凡人だが、彼女なりの美意識に準じる覚悟があった。大衆を殴りつけてでも、自分(が美しいと思うもの)に目を向けさせたかった。

本人が周りの無関心を受け入れ、作品の評価が穢されたままを受け入れるようなら、「他の誰でもない自分こそがその作品を穢した唯一の存在になる」ということを考えた。
(まあ長山香奈はアマノジャクなので最後までプレイしたらこれすらも建前で得ることがわかるんだけど、ここには本心も多分に含まれていると思う)

ハックルさんも同様の流れだったと考えることもできなくはない(というかそう考えたほうが面白い)

ハックルさんに関しては完全に妄想するしかできないが、おそらく彼もゲームの歴史が正しく語られていないことに苛立ちを感じたのではないか。ソシャゲに対する憎しみにも近い記述を見るに、自分が愛したゲームというものが、醜いものに乗っ取られていると感じたのではないか。彼はゲームを愛していて、「自分ごときでは名作と呼ばれるようなゲームを作れない」という挫折を味わったからこそ、ゲームの世界を芸術作品であるかのように捉えていた。自分が美しいと認めたもの以外はゲームではないと言うところまで純化していた。


そういうハックルさんにとって、ソシャゲのようなものをヨシとし、なんならそれに依存しているようなゲーム業界は許せなかったであろう。

彼も長山と同じように己の美意識に準じ、今の穢れたゲーム業界ならば自分の価値観で塗り替えてしまってもかまわない、と思ったのではないか。その結果として自分が本物に打倒されるならそれも最初から本望だったのではないか。

何の狙いもなく「これが本当のゲーム歴史だと思っていた」と考えるにはこの本はあまりにもずさんすぎる

岩崎さんのハックルさんに対するツッコミを見てて思うのだが、この本は単に無知無能とするにはあまりにも創作めいている。ただ間違ってるだけじゃなくてあまりにも偏っている。歴史解説本ではなくて仮想戦記のようだ。

ハックルさんは私のような人間が読んでもアホかと思う話を書くことが多々あるが、これが事実に基づいた歴史とは程遠いくらいはわからないほどアホではなかったはずだ。また、仮にハックルさんが無知なだけだったなら講談社の人や稲田さんという著者さんがよほど無能でない限り止められていただろう。にも関わらずこの本は「ゲームの歴史」という名前で、よりにもよって講談社から出たのである。

であれば、この本は最初から何らかの挑発を目的として、講談社もグルとなって書かれたもの、くらいに考えたほうが「面白い」。



そう考えでもしないとこの本に価値など見いだせない。

ハックルさんには「凡人(才人)」だからこそ彼の成し遂げた偉業が輝く

これはハックルさん批判を目的として書いているわけではない。

私はハックルさんの天才性については根こそぎ否定する立場だ。

彼は私たちと同じ凡人である。彼には才能なんかかけらも感じない。

彼の文章は技工も拙いし読みにくいし構成も無茶苦茶であり何より面白くない。時間の評価に耐える小説作品など一つも生み出せていないしこれからも生み出せるとは思えない。

それでも、彼は私たちとは全然違う。

彼は凡人のまま、彼なりのやり方で天才たちと戦おうとしてたし今でも戦い続けてる。
勘違いだろうが思い上がりだろうが、そういう覚悟を今でも持ち続けている。
天才でさえ途中で心折れる人が多いのに、凡人でありながらこんなことができる人間はめったにいない。

私が大好きな長山香奈とハックルさんはこの点で似ている。

どちらも才能でいえばどうしようもなく「凡人」でしかない。しかし凡人でありながら天才たちに戦いを挑み、一瞬かもしれないが天才ですらたどり着けなかった地点にたどり着いた。他の天才たちがなし得なかった偉業を達成した。


そういう意味でハックルさんは間違いなく「主人公」属性を持っている。

尊大な態度や性格の割に出てくるアウトプットがアレなものが多く、それが周りの人間をざわつかせるものかもしれない。けれど凡人のまま非凡な存在になった。それは天才がただその才能をいかんなく発揮して偉業を達成するよりよほど稀有なことだ。


彼や彼女のような人間でしかできないこともあるのだ。
これは絶対に否定すべきではないと思う。


そんな人がただの無知無能無謀だけでこのような本を出したとはどうにも思えない。まあ駄作を恥ずかしげもなく出しまくってた時期もあるからその延長だった可能性も否定できないがそれはあまりにもつまらない。



みんなも長山香奈を知ることで、ハックルさんの価値を再発見すべきだ。



※本作は長山香奈に似た立ち位置の存在として「本間麗華」というものがいるが、こちらとセットでもうちょっと長山香奈について語りたい。だいたいこのような話をあと3記事くらい書こうと思ってる。



ともかく長山香奈が好きすぎる……

長山香奈は大活躍でした。直哉につきまとうことでストーリーを前へ転がしていく進行役であり、凡人としての目線をもってガイド役もよくこなす、影の立役者となってます。
 稟にからんでのクズっぷりと小物感まるだしで登場したものの、その後のルートでは里奈の実力を率直に認めたりと、別の顔をかいま見せてゆきます。ついにⅤ章では、凡人の悲鳴でプレイヤーの心をぐっと引き寄せつつ直哉をよく助けると、ヒロイン勢をさしおいて彼のとなりに並び立つ。学生時代最後となる桜を共に見送りました。「藝大だけ受けました。そして落ちました」「来年も受けます」ふてぶてしく宣言するさまが清々しすぎて、わたしのなかでは長山株がまさかのストップ高。だというのに、VI章ではいじましく自分の信念だけ貫きやがって、よりにもよって『櫻達の足跡』という本作最大の聖域を踏みにじりやがった。わたしが心をゆるしたとたん裏切りやがった。可愛い。好きだ。

声優さんもちょっと狙いすぎなほど完璧なキャスティングです。あまりにハマリ役すぎて、香奈が登場するたびに「くんなっ、小倉結衣こっちくんなっww」おおはしゃぎしていたわたしです。ウザそうだけどそこまでウザくないしちょっと可愛いかなと思った次の瞬間やっぱりすんげぇウザくなり、情が移ってる、小倉結衣マジック。とても良いです。「あ゛ぁ? 何? あんたは?」とかの薄汚い声からは、香奈のお里が知れて愛らしくて愛らしくて。愛憎を決めかねるウザ可愛いさが、敵にしても味方にしても厄介な彼女をよく表します。やり過ぎ上等のハイテンションボイスを続けたかと思えば、ぞくりとくる卑屈な声をしぼり出して、香奈のつま先立ちな心のかたちを見え隠れさせるから上手いです。小倉結衣の "なにかを渇望して" かすれた声には震えてしまいます。好感度がせわしなく乱高下するキャラクターを微調整しながらよく演じて、場をかき回してくださりました。

 香奈は卑近だからとても共感しやすかったです。ひとつの理由としては、不徹底な独我論を口に出さずにはいられないキャラクターなため。本作では稟が『すば日々』の静を体現しており、ウィトゲンシュタイン的な独我論 (私=世界) を掲げることになります。その "黙示" をくっきり際立たせていたのが香奈のけたたましさ。彼女は「私の美意識だけが絶対である」と宣言せずにはおれなくて、逆接的に、他者の評価を誰よりも気にかけて怯える人になっている (独我論的 "発言" はナンセンスであり、期せずして文法的真理を語ってしまうのです)。だから他者存在を貶めることにもこだわるし、努力を重ねるし、直哉の手による作品を愛し、憎み、そのすべてを知ろうとする。今作ヒロインの誰よりも他者へと期待して失望する、情の深い人でありました。

 お話として直哉には正義のヒーローの役割があり、ヒロインたちのことは基本的に庇護しようとしています。ところが香奈は、悪の女幹部とでもいうべきコミカルな悪役なので庇護対象外。貸し借りもなし。使命感やらを抜きに付き合っていけるのは、話がいよいよ展開するⅤ章で寄りそうタイミングの良さもあって快いです。
 かなりアクが強くて厄介なキャラではあるけれど、ヒロインたちがこちらに面倒をかけまいとお利口な距離感を保っているなか、息を切らせて汗だくになって追いすがってきて、心からの不満をぶつけてくる香奈の貪欲さはいっそ好ましかったです。

https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=Sek8483

「凡人は凡人のやり方があります。才能は凡人を裏切りますが、技術は凡人を裏切らない。努力で得た技術体系こそ、凡人の武器。凡人の刃だって、天才どもののど元に届く事がある。才人は、天才を惑わす技を持っている。何故ならば、才人は凡人であるからです。」

http://erogeanimemeigenshuu.com/sakuranouta.html

「実力がなきゃ言えない真理なんて真理でもなんでもないです。それは強者の理屈でしかありません。

「私はずっとずっと先まで行く。あんたらみたいに、与えられた境遇に安寧している様な輩ではたどり着けない場所。私は行くわ。」

8年前に「サクラの詩」が終わったとき、私はこのクソ生意気な娘のことがとても魅力的に感じられた。

私は彼女よりもはるかに才能がない。
狭いはてなブログという世界においても、基本読書の人や本しゃぶりの人のような何かを持たない。
才能以前に熱意がないのだ。ただ惰性で、手癖で文章を書き続けることしかできない。
「練習」しかできない。「本気で戦って負ける」ということができない。

そして、そのことを受け入れてあっさりと妥協した人間だ。


だからこそ、身の程知らずに高い夢を持ち、戦うことをやめない彼女はとても魅力的だった。
彼女が何を成し遂げるのか、あるいは成し遂げられずに途中でくたばるのか。
それを行く末を見たいと強く願った。


そして、この娘は期待以上の奮戦をしてくれた。大満足です。