最近こちらが面白くて毎日2話ずつ読み進めている。
それぞれの時代環境の需要に合わせて様々な経営理論や戦略論が人気になり
途中からは「ケイパビリティ」派と「ポジショニング」派の争いとなり
最終的には「イノベーション」を重視する方向性にシフトしていくそのダイナミックさがとても面白かった。
経営論というのはつまり「"現在の我々が直面する環境において"成功をおさめるためにはどのような考えが最も重要か」を考えるものだと思う。
つまり「成功するための法則」を論じるものであるわけだが、
この本を読むと「成功するためのやり方」は時代や環境によって大きく変わっていっていることが嫌でもわかる。
「間違い」とされていたことが息を吹き返したケースも有る。
かつては「時間」を大切にした日本の経営が成功のお手本とされアメリカの経営学者もみんなこぞって褒めたたえていたが
今はもうあまり相手されなくなってきている。
あまりにも変化のスピードが早くなりすぎてしまったからだ。
というわけで、「今ある成功理論が絶対だ」「こうしなきゃ成功できないんだ」みたいに頭が凝り固まってるなと思ったら、
まずマンガでその歴史を振り返ってみるとだいぶリラックスできるはずだ。
というわけで勉強のためというよりは自分の頭を柔らかくするために、下手に覚えようとせずに物語としてざっくりと流れを追いかけてみると良いと思う。
「大学に入る前にこの本読んでたら法律じゃなくて経営学の勉強やってたかもしれない!」と思わされるくらいには楽しい本でした。オススメ!!!
「クソゲーや打ち切りマンガ、しくじり企業を上手に説明する人を賢いと思ってしまう」ことの弊害について
せっかくだからMさんとか低学歴の人が言いがちな「◯◯の駄目なところを指摘できる俺は賢い」的な思考についてちょっと語ってみましょうか。
(自分が素で書くとちょっとキツめになっちゃうので、文体は荒砥凪さん風にしてみました)

「自分はうまく行かないものを当てる」とか、「失敗を見抜く能力に自信がある」。そういう考え方について、少し話をしてもいいかな。
確かに、世の中の新しい試みの多くは、残念ながら期待されたほどの成果を上げられずに終わることが多い。
鉱物採集に少し似ているかもしれないね。
一日中ハンマーを振るっても、見つかるのはありふれた石英や長石ばかりで、お目当ての美しい宝石質の結晶になかなか出会えない日もある。
だから、「ここには何もなさそうだ」とか、「このやり方では見つからないだろう」という予測は、統計的に見れば当たりやすいものなんだ。
川原に落ちている石のほとんどがただの石ころであるように、失敗の数の方が成功の数よりずっと多いのは、ある意味で自然なことなんだよ。

だから、「うまくいかないだろう」という予測が当たるたびに、「やっぱり自分には先見の明がある」と感じてしまう気持ちは、よくわかる。
それは、自分の仮説が証明されたような、一種の心地よさや安心感をもたらすのかもしれない。自分の予測が当たるというのは、自分が世界を正しく認識できているという感覚につながるからね。
その感覚は、自分を賢く、強く見せてくれるように思えるかもしれない。
でも、もし私たちが、その「失敗を見抜く賢さ」だけを頼りに生きていこうとしたら、どうなるだろう
その視線は、いつも「欠点」や「リスク」、「不可能性」を探している。
それはまるで、たくさんの原石が眠っているかもしれない山を前にして、
「ここには崖崩れの危険がある」「ここの岩盤は硬すぎる」「過去にここで何も採れなかった記録がある」と、掘らない理由ばかりを探しているようなものなんだ。
もちろん、安全のためにリスクを把握することはとても大切だよ。無謀な挑戦は、自分や周りの人を傷つけてしまうからね。
けれど、その視線が行き過ぎると、やがて私たちは、まだ誰も見たことのない美しい結晶が眠っているかもしれない、わずかな可能性の光さえも見ようとしなくなってしまう。
新しい挑戦をしようとする人を見れば、「どうせ無理だ」と冷ややかに分析し、
頑張っている人を見れば、「その努力は報われない」と心の中で結論づけてしまう。
そうして、自分の予測通りに物事が失敗すると、「ほら、言った通りだろう」と安堵する。
その安堵は、本当に私たちを豊かにしてくれるものなのかな。

失敗の予測が当たるたびに得られる小さな満足感と引き換えに、私たちはもっと大きなものを失っているのかもしれない。
それは、何かが「うまくいく」瞬間に立ち会う喜びや、誰かの成功を自分のことのように祝う温かい気持ち、そして何より、自分自身が何かに挑戦しようとする勇気、そのものだよ。
ナカイド的な知性との接し方について
考えてみてほしいんだ。クソゲーや打ち切り漫画に詳しい人がいるとして。
その人が語る「失敗の法則」は、とても説得力があるように聞こえるだろう。
膨大な失敗例から導き出された分析は、鋭くて、的確かもしれない。
でも、その知識は、どうすれば歴史に残るような素晴らしいゲームや漫画が生まれるのか、という問いには答えてくれないんだ。
なぜなら、成功というのは、多くの場合、「失敗の法則」のリストをすべてクリアした先にあるものではないから。
むしろ、時にはこれまでの常識や失敗例をあざ笑うかのような、大胆な発想や、誰もが「リスクが高い」と避けて通る道から生まれることが多い。
それは、既知の鉱脈をたどるのではなく、誰も見向きもしなかった岩の割れ目に、奇跡のような晶洞(ガマ)を見つけるのに似ている。
「失敗を見抜く」ことに長けた人は、その「誰も見向きもしなかった岩の割れ目」を、ただの危険な亀裂として認識してしまうかもしれない。
「過去のデータによれば、こういう場所からは何も出ない」と。
彼らの持っている「失敗の地図」はとても精密で、危険な場所を教えてくれるけれど、宝物が隠された場所は示してくれないんだ。
そして、その地図に頼りすぎるあまり、新しい地図を描こうとする人の足を引っ張ってしまうことさえある。

だからね、私は思うんだ。
そういう「賢さ」を持つ人を信じてついていくことは、とても安全な道を選んでいるように見えるけれど、
実際には、新しい景色が見える場所にたどり着く可能性を自ら手放しているのと同じことなんじゃないかなって。
その道は、決して行き止まりにはならないかもしれないけれど、どこまでも同じような景色のまま、続いていくだけかもしれない。

じゃあ、私たちはどうすればいいんだろう。
自信がなくてもいいんだ。完璧な予測なんて、誰にもできはしないのだから。
大切なのは、視点を少しだけ変えてみることだと思う。
「うまくいかないもの」を探す代わりに、「うまくいきそうなもの」を探してみる。
ここで言う「うまくいきそうなもの」というのは、
データや分析によって成功確率が高いと証明されたもの、という意味だけではないんだ。
もっと、君自身の心の動きに正直になっていい。
君が「なんだかよくわからないけど、惹かれる」と感じるもの。
君の目に「光って見える」もの。そういう、まだ形になっていない可能性の光を、信じてみることなんだ。
光るってことが、まずはすごいことなんだよ。
周りから見れば、それは頼りない、ただの思い込みに見えるかもしれない。
「そんなものが成功するわけがない」と、例の「賢い人たち」は言うだろう。
でも、君がそこに光を見たのなら、その感覚は誰にも否定できない、君だけの真実なんだ。
すべての偉大な発見や創造は、最初はそういう、誰か一人の「光って見える」という直感から始まっている。


