自分自身の部下にも、この子よく主観と客観を混同するなーと思った時には
「言葉の主語をよく考えてみて」っていうようにしていまして、繰り返している内に随分改善された子もいるんで、割と通用しやすい指導方法じゃないかと考えている
私はこの記事素晴らしいと思います。
いつものことですが私は安達さんの記事を読んでいるとまるでマナー講師のように単にあれが問題だこれが問題だと無際限に問題を作り続けているだけじゃないか?と感じることが多いです。ソリューションが提示されていてもそっちは薄く感じるし何より安達さん自身の実践が伴ってないので説得力が薄い。
一方しんざきさんの記事を読んでいるときは、問題の認識に留まらず「彼なりのソリューション」を提示しているケースが多く、読んで得したなあと感じることが多いです。そういう記事をコンスタントに書けるしんざきさん自身が普段からいろんな工夫を実践されているのだろうということが感じるので、尊敬のまなざしで見ています。
さて話は変わりますが、この主語を意識する訓練。「学校のカリキュラムで取り入れるべき」というコメントも見られますが、現時点でもその気になれば学校教育のカリキュラムで訓練できます。
ただ、教わる側どころか教える側もその価値をあまり認識してないだけで。
そう、古文と漢文です。
特に古文。
なにかと過小評価されがちですがこれ「役に立つ」授業だと私は思ってます。
学校教育で教わる古文って、文章の主語が誰かがわかるかわからないかが8割くらいをしめていてると私は思ってます。主語あてゲームなんですよ。
このゲームのルールさえわかってしまえば、問題で問われている内容は、現代文とは比較にならないくらい簡単です。そのくらい学校教育では古文や漢文を通じて「これ誰が何について言ってるのかわかるか」をつかむスキルを教えることを重視していると思っています。 教養云々は二の次で「スキル」としての国語を教えてるという印象ですね。
学校教育における古文や漢文って、面白い面白くないはともかくとして、とっかかりさえ作れば割と誰にでもできるレベルのところまでしか掘り下げてないんです。
このレベルでは「奥深さ」「面白さ」を体感するのは難しいとおもいますがでも、その分「簡単でお手軽に役に立つ」授業だったと私は思うんですよね。
「月島くんさ!バレーボール楽しい?」
「いや…特には…」
「それはさ。下手くそだからじゃない?」
「な…」
「俺は3年で、全国にも行ってるし、お前より上手い。断然上手い!」
「言われなくてもわかってます。」
「でも、バレーが"楽しい"と思うようになったのは最近だ」
「!」
その点が過小評価されすぎてると思うので、たまには褒められてほしい。
この件に限らず、私は日本の学校教育の国語のカリキュラムをかなり高く評価してます。もちろん「足りない」ところはいっぱいあるけど「○○ではないからダメ」というのは論理的な主張ではなくただのイデオロギーではないでしょうか。
私は、古文や漢文の「面白さがわからない」人はともかくとして「役に立たない」って言ってる人は、なんの戦略も何の工夫もなく読みに行って爆死して、何もわからんっていって投げ捨てちゃってるだけじゃないの?って感じてしまいます。エンタメの感想ならいいけど、スキルの習得という取り組みに対して、入り口で躓いている分際でそれに真剣に取り組んでる人をけなすようなこと言うような人を、私は好きじゃないです。とというか「役に立つレベルまでスキル習得してない人」が役に立たないって言ってるのはかなり滑稽じゃない?
「もっと役に立つことがある」という比較は、古文や漢文の価値を認識してはじめてできることです。なんでもそうだけど、否定しようとする前に自分なりに価値をちゃんとはかろうとしてみてほしい。価値がわからん人間が何かと何かを比較しようとしても無意味です。 とにかく、もっと古文と漢文は評価されてほしいし、無駄だと否定したい人は、ちゃんと勉強してある程度の成績を取ってからにしてほしい。
著者の考えは「遠い風景」である。遠いところに置いてある「ばかでかい絵」を描いた人と考えてもいい。
遠くに絵があって、それより近い場所に出題者がいて、その風景を(ばかでかい絵画を)勝手に切り取って、その一部分だけを見せる。出題者は意図をもって切り取り、一部分しか見せてくれない。
そして「何が見えますか」と聞いてくるのだ。
これが読解問題である。
わかりやすくいうなら、類推の禁止、想像の禁止である。そういうルールがある。
この作者なら、こういうことを考えそうだ、と想像してはいけない。本文中に明確に書いてあることだけ、そこだけからしか答えない。
こういう記事が私はすごく好きです。